翻刻
は畠山家ゟ弐壱〇〇百石宛行有しか天正年中畠山絶
し後百姓となり今に墨付持伝へり菅原合戦の
時感状抔あり
今濱より弐里拾五町本馬八拾八文軽
一ノ宮 尻五十四文人足四拾四文なり高松ゟ
是まては平份なり
此一宮は宿と寺家と二ヶ村になりて宿の分は家数
は百軒余計有て商家抔有又寺家村は気多の
社の門前にあり神主百姓入交て是は百五拾軒
計有此一村は気多の社地にして火を齋む事
正し式は女の月の穢抔は家之屋後に別家ありて
籠る也懐胎の者は山に出小屋とてあり是にて産
する也其外当社は他社と違ひ社格色々ありて
厳重なり若し無慎の者あれは忽に其崇礼にあ
るなり惣して昔は一国当社の守地なれは如此火
を齋しによつて能登に浪主産して新齋(アライミ)の
内を小屋の内といふ