翻刻
又気多の一宮は大社にして延喜式抔に委し本殿
は大己貴の命奥の社は素盃【盞は盃の小さなもの】の命稲田姫の
命なり則御夫婦の御神此所にて神隠れ給ふと
なり頂(ウナジ)の社は大最【穴か?】持の命の御像名也神代より
御鎮座にして北国の大社なり又諸神記の中
巻に曰気多の神社は崇神天皇の御宇御勧請
とあり類衆国史神祇の部に文徳天皇斉衡二年
五月辛亥詔ありて能登国気多の大神宮寺に
住寺を置となり其比は社人祢宜社僧多くありて
今に六万坊抔と云所あり社領其比は羽喰郡三万石
なり中比畠山国守の時は三千石なり其後は兵乱に
太神宮寺多くの社人衆徒も絶転して御当代に
なり亜相利家公社領三百五拾石御寄附又黄門利
常公に成大宮司桜井氏の外に社僧四ヶ寺御建立
あり社頭諸堂御再興有て御膳調進の濱拾町
細船一艘御寄附大宮司大監物は六拾五石社人廿人と
神子壱人は七石宛別当長福院は六千石地蔵院薬
師院正覚院三ヶ寺共拾石宛也御社領三百五十石