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コレクション: 松平文庫

温古集 五巻 - 翻刻

温古集 五巻 - ページ 20

ページ: 20

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【右丁上段】 ○常置委員の出張 縣下(けんか)洪水(こうずい)にて堤防(ていばう)を破壊(はくわい)し田圃(でんぽ)を荒(あら) し道路(どうろ)を潰决(くわいけつ)する等(とう)の損害(そんがい)尠(すく)なからされば實地(じつち)見分(けんぶん)の 爲(た)め常置委員山口謙之助豐島新太郎の二氏には森山 驛(えき)へ 富田彌五平永田定右衛門の二氏には小濱へ向(む[か])い何(いづ)れも出(しゆつ) 張(てう)せられたり ○水難の製造せし赤貧者 今回(こんど)の水難(すひなん)に逢(あ)ふて西(にし)へも東(ひがし) へも行(ゆ)かれず目(め)もあてられぬ赤貧者(せきひんしや)は當市(とうし)橋南(きやうなん)常盤木町(ときはぎてう) 外(ほか)廿二ケ町村(てうそん)の戸長役場(こちやうやくば)部内(ぶない)にては合計(ごうけい)六百拾六人内男 百五十七人女二百 零(れい)七人十五歳以下の男女二百四十二人 何れも生計(せいけい)立(た)ちがたきを以(も)て御救助(ごきうじよ)を仰(あをぎ)たき旨(むね)を願(ねが)ひ出(い) でたる由(よし)又(また)同部内(どうぶない)に於(おひ)て洪水(こうずい)の爲(た)め家屋(やおく)を破壊(はくわい)し殆(ほとん)と居(すま) 住(ひ)爲(な)り難(が[た])きは二 戸(こ)及(およ)び土藏(どざう)一ケ(か)所(しよ)にして其他(そのた)は少(すこ)しく破(は) 壊(くわい)せし家屋(かおく)もあれど先(ま)づ修繕(しうぜん)を加(くわ)ふれば別條(べつじやう)なしと云(い)へ り ○疂三枚に十六人 かの當市(ふくゐ)洪水(こうすい)の砌(みぎり)注意(ちうい)の深(ふか)さ人々(ひと〴〵)は 去(さ)る一日の晩(ばん)は終宵(しうせう)眠(ねむ)らす水脚(みずあし)ばかり考(かんが)へしともてスワ と云(い)ふより早(はや)く飯(めし)を焚(た)き疂(たゝみ)を巻(ま)くり小道具(こだうぐ)を片附(かたつ)け溢水(いつすい) の津(つ)なる竹(たけ)ケ鼻(はな)観音町(くわんおんまち)にてもまづ〳〵さほとに困難(こんなん)せざ りし家(いへ)も少(すくな)からぬが寐入(ねい)り込(こ)んでかの和田(わだ)中村(なかむら)の堤防(ていばう)を 崩(くづ)す天地(てんち)に轟(とゞろ)く響(ひゞ)きして巨濤(きよとう)を先手(さきて)に襲(おそ)ひ來(きた)りし溢水(いつすい)を 【右丁下段】 知(し)らす障子(しやうじ)建具(たてぐ)に水(みづ)の瀉(そゝ)く聲(こゑ)と夜具(やぐ)の濡(ぬ)れて冷(ひやゝ)かなるに 始(はじ)めて目(め)が覺(さ)め周章(あわて)て避水(ひすい)の用意(ようい)にかゝりし連中(れんぢう)は火事(くわじ) に逢(あ)ひしも同様(どうやう)丸裸(まるはだか)とは爲(な)りたる中(なか)にも観音町(くわんおんまち)の士族(しぞく)藤(ふぢ) 田氏(たし)には早(はや)くも置(お)きあげを爲(な)し疂(たゝみ)三 枚(まひ)を敷(し)き避(のが)れ塲(ば)を爲(な) したるにかの遅(おく)ればせに周章(あわて)し連中(れんぢう)はどうもこうも爲(な)ら ぬより子(こ)を連(つ)れ親(おや)を連(つ)れ救(たす)けて呉(く)れと驅(か)け附(つけ)て來(き)しもの 十四人 此(この)夫婦(ふうふ)を合(あは)せて十六 人(にん)が疂(たゝみ)三 枚(まい)の上(うへ)に水(みづ)を詠(なが)めて 茫然(ぼうぜん)たるうち水(みづ)はます〳〵殖(ふ)へる波(なみ)はいよ〳〵强(つよ)くなる 其(その)すさましきこと言語(ごんご)筆紙(ひつし)に盡(つく)しがたく救(たす)けてくれ今(いま)死(し) ぬと呼(よ)べと叫(さけ)べと逆巻(さかま)く浪(なみ)の塀(へい)を流(なが)し門(もん)を破(やぶ)る勢(いきほ)ひなれ ば近所(きんじよ)の人(ひと)の之(これ)を見(み)ながらも救(すく)ひに行(ゆ)くことは迚(とて)も叶(かな)は ず食(しよく)には盡(つ)きる湯茶(ゆちや)どころか水(みづ)一 杯(はい)が手(て)に入(い)らず足(あし)すり して歎(な)げくうち置(お)き上(あ)げの疂(たゝみ)の上(うへ)へ水(みづ)のあがり子供(こども)の首(くび) ぎりと爲(な)り今(いま)は是(こ)れまでと覺悟(かくご)をさだめ南無阿彌陀佛(なむあみだぶつ)南(な) 無妙法蓮華經(むめうはふれんげきやう)と佛力(ぶつりき)に加護(かご)を仰(あを)がんと十六 人(にん)が異口同音(ゐくどうおん) 呼(よば)はる折柄(おりから)遙(はる)かに一 艘(そう)の船影(ふねかげ)が見(み)へるよりソレと聲(こゑ)かけ 救(すくい)をよぶに楫(かぢ)を速(はや)めて漕(こ)ぎ附(つ)けしは牛乳(ぎうにう)團野氏(だんのし)よりその 本家(ほんけ)なる柔術(じゆじゆつ)團野氏(だんのし)へ見舞(みまひ)を送(おく)ると乗(の)り來(き)し船(ふね)なりしに ぞ一同(い[ち]どう)には六(むつ)ケしまづ子供(こども)だけ受取(うけと)らんと子供(こども)九 人(にん)を乘(の) せて船(ふね)は郡役所(ぐんやくしよ)さしてかへらるゝを何分(なにぶん)お早(はや)くお願(ねが)ひ申(もうし) 【左丁上段】 升(ます)遅(おく)れ升(ます)と跡(あと)のもの共(とも)はこのまゝ流(なが)れて仕舞(しま)ひ升(ます)と恰(あたか)も 俊寛(しゆんくわん)の鬼界島(きかいじま)に殘(のこ)されしあわれのさまに救(たす)けてはやり たしみな載(の)せて船(ふね)がかへると見(み)かへり〳〵思案(しあん)の中(なか)今(いま)一 艘(そう)の船影(ふなかげ)は長谷部(はせべ)戸長(こちやう)巡回(じゆんくわい)の一 連(れん)なりしにぞ地獄(ぢこく)で佛(ほとけ) 手(て)まねきして船(ふね)を呼(よ)び殘(のこ)らずこれへ移(うつ)さるゝと間(ま)も無(な)く その置(お)き上(あ)げは浮(うか)びて下手(しもて)へ流(ながれ)たりとぞ嗚呼(あゝ)今一歩(いまいつぽ)この 船(ふね)の遲(おそ)からんには十 六人(ろくにん)はまたこの世(よ)の人(ひと)にあらざりし なる可(べ)し ○洪水餘况 本紙上(ほんしじやう)當市(たうし)溢水(いつすい)の惨况(さんきやう)は號を追(お)ふて記載(きさい)し 略(は)ぼかの概(あらまし)を盡(つく)したるが何分(なにぶん)市中(しちう)の東部(とうぶ)に属(ぞく)する元城(もとじやう)の 橋(はし)より新屋敷(しんやしき)中島邊(なかしまへん)は急中(き[う]ちう)の急水(きうすい)にてかの疂(たゝみ)のごときた ゞ流失(りうしつ)を免(まぬ)かれしと云(い)ふのみにしてすべて泥水(でいすい)の充分(じうぶん)浸(ひた) すところと爲(な)りたれば乾(ほ)さんとするもかな【なかヵ】〳〵容易(やうゐ)の事(こと) には乾(かは)かず加(くは)ふるに洪水(こうすい)以來(いらい)曇天(どんてん)或(ある)は細雨(さいう)降(くだ)りて日光(につかう)の 赫灼(くわくしやく)する尠(すく)なければ日(ひ)を重(かさ)ねるに隨(したが)つて表面(おもて)は僅(わづ)かに 乾(かは)くもなかはすべて腐敗(ふはい)爲(な)し惜(おし)いものとは思(おも)ひながらま た詮術(せんすべ)もあらざればかの表(おもて)のみを切(き)り取(と)り他(た)を或(ある)は街躍(がいとう)【頭ヵ】 の低地(ていち)などに敷(し)きて市街(しがい)の便利(べんり)を爲(な)すものもあれど大概(たいがい) はみな家屋(いへ)の軒塲(のきば)或(ある)は瀬戸(せと)などに積(つ)み置(お)くより追々(おひ〳〵)土用(どよう) 【左丁下段】 の候(こう)に及(およ)べば蒸(む)し腐(く)され臭氣(しうき)紛々(ふん〳〵)鼻(はな)を突(つ)き衛生上(ゑいせいじやう)弊害(へいがい)を 來(きた)す尠(すく)なからざれば如何(どう)せ無用(むよう)の物(もの)と思(おも)はるれば道路(どうろ)の 抵地(ていち)或(ある)は破壊(はくわい)せしところへ敷(し)きて行路(かうろ)の便利(べんり)をはかるか 何(なん)とか角(か)とか方法(はうほう)を設(もう)けたら宜(よろし)からふと或人(あるひと)の忠告(ちうこく)も至(し) 極(ごく)尤(もつと)もの様(やう)におもわるなり ○疊賣の谷廻り 則(すなは)ち前項(ぜんこう)のごとく溢水(いつすい)の浸(ひた)して家々(いへ〳〵)そ の疊(たゝみ)を或(あるひ)は流(なが)し或(あるひ)は濡(ぬ)らし新物(あらもの)を買取(かひと)らんと考(かんが)へこの機(き) をあやまらす早速(さつそく)疊(たゝみ)を賣(う)り捌(さば)きに奔走(ほんそう)して鋭利(ゑつり)をとらん と思(おも)ひ付(つき)たる奸商(かんしやう)にはあらぬ疊商(たゝみや)は數十(すじつ)の疊(たゝみ)を或(あるひ)は荷車(くるま) なとに積(つ)みて市中(しちう)を賣(う)り歩行(あるく)とか家財(かざい)を溢水(みづ)に浸(ひた)して歎(なげ) くものあり又(また)其(そ)を見かけて物品(ぶつぴん)を賣(う)り利(り)を儲(もふ)けて喜(よろこ)ぶ者(もの) あり世(よ)は千差萬別(さ ま  〴〵 )のものにぞゐると云(い)ひつ可(べ)し ○百間堀のぬし 去(さ)る三 日(か)の稍々(やゝ)正午(まひる)とも覺(おぼ)しき頃(ころ)當市(ふくゐ) 市端(まちはづれ)中島(なかじま)の宗福寺(そうふくじ)の留守居(るすゐ)比丘尼(びくに)が四方(しほう)洪水(こうずい)に圍(かこ)まれて 安(やす)き心(こゝろ)のなかりしが追々(おひ〳〵)引汐(ひきしお)となりたるに先(ま)づ安心(あんしん)と表(おもて) の方(かた)を何心(なにこゝろを)なくながめし折柄(おりから)四(よ)ツ井村(ゐむら)の方(かた)よりして大さ 三 尺(じやく)四 面(めん)もあるとも思(おも)はる大龜(おほがめ)が浮(う)きつ沈(しづ)みつ泳(およ)ぎ來(き)て 同所(どうしよ)の堤防(つゝみ)をひらりと乘(の)り越(こ)へ竹(たけ)ケ鼻(はな)の方(かた)へ行(ゐ)きしを見(み) 受(う)けしにぞそゞろ身(み)の毛(け)も戰慄(よだち)たりと話(はな)せしとかその邊(へん) の人(ひと)の噂(うわさ)にはコノ大龜(おほがめ)は豫(かね)て老人(ろうじん)の口唇(こうひ)に傳(つた)はるかの百