翻刻
あるべきぞ。と嘲(あざ)りつゝ帰(かへ)りしが。各密語(おの〳〵さゝやき)いへるやう。彼古墳(かのこふん)に血(ち)を著(つけ)て。老(おう)
媼(な)を変詐慰(たばかりなぐさ)まば。こよなき一興(いつきよう)ならんとて。小狗(こいぬ)の死(し)したるを索(たず)ね出(いだ)
し。腹(はら)を引裂(ひきさき)て。かの古墳に塗(ぬり)つけおきたり。老媼(おうな)は斯(かく)ともしらずして。其(その)
明(あけ)の朝岳(あさをか)に登(のぼ)り。古墳(こふん)を見るに豈計(あにはか)らん。殷(のり)血の著(つめ)てあらんとは。こゝに
於(おい)て大(おほい)に駭(おどろ)き。山上(さんしやう)より転(まろ)ぶか如く。駈下(かけお)りて吐息吻(といきつ)き。今日(けふ)この邑(むら)
に大変(たいへん)あり。疾々(とく〳〵)調度(てうど)を片付(かたづけ)て。一刻(いつこく)も早(はや)く山(さま)に登(のぼ)れ。然(さ)なくは
命危(いのちあや)ふからん。と言捨(いひすて)てまた走(はし)り出邑(いでむら)の内(うち)を馳(はせ)まはり。このことを告(つげ)
にける。この老媼(おうな)が家(いへ)にては。老人(としより)の何(なに)をかいふと。疑(うたが)はしくはおもへども。捨(すて)
おくべきにあらざれば。頓(とみ)に資財雑具(しさいざふぐ)を緘(から)げ。宛然急火(さながらきうくわ)の出来(いでき)し
ごとく。周章(あはて)て山上(さんしやう)へ逃登(にげのぼ)る。邑(むら)の内(うち)にても心(こゝろ)だて。直朴(すなほ)なる者(もの)はこれを
聞(きい)て。日来(ひころ)より律儀(りちぎ)なる。老媼(おうな)が言故(ことばゆゑ)あらん。と是(これ)に随(したが)ふ者もあれど。【以下の本文はコマ十二の左側に続く】
【コマ十四の右側から続く本文】
戻(もど)らんとせし所(ところ)に。丼(どんぶり)めしの行燈出(あんどういだ)して。飯(いひ)を鬻(ひさ)く家(いへ)のありけらば。これ幸(さいわ)
ひと立よりてその飯握(めしにぎ)り飯(いひ)になし。有る限(かぎ)りを売(う)れといふ。亭主(ていしゆ)と覚(おぼ)しき
漢子(をとこ)たち出(いで)。吾儕活業(わなみなりはひ)には候へど。今日(けふ)はこの騒(さわ)ぎにて親族(うから)の方へ贈(おく)ら
んと焚(たき)たる飯(いひ)にて候へば売(う)ることはなり難(がた)し。と断(ことは)りいふに武士(ものゝふ)は大(おほい)に怒(いか)
りて売(う)らぬものならなどて行燈(あんどう)を出しおきたる。吾(われ)を窮士(きうし)と侮(あなど)りて
如此(しか)いふにや心得(こゝろえ)がたし。一旦武士(いつたんぶし)が買(かひ)うけたるを買(かは)でやはあるべき。と白眼(にらみ)
つめていひければ。亭主(ていしゆ)は是(これ)に懼(おそ)れをなし。看板(かんばん)を出(いだ)せしは家族等(かぞくら)が心
得違(えちが)ひ今日(けふ)は商(あきな)ひをし侍(はべ)らず。曲(まげ)て許(ゆる)さへ給へと倍礼(わぶれ)ど。武士(ものゝふ)は猶聞(なほきゝ)
入れず。今より後(のち)は如何(いか)にもせよ。我(われ)は看板(かんばん)を見て来(きた)りしをいかで空(むなし)く
出(いで)去るべき。右左(とかう)いはずに頓々(とく〳〵)売(う)れ。と理(り)をもて切(せち)に責(せめ)られて。亭主(ていしゆ)は
額(ひたひ)を撫(なで)ながら。さらば売(う)りても参(まゐ)らせんがこの炊桶(かしをけ)に入るゝなら。この飯(いひ)は