翻刻
一切流失し其辺を川となし後ろに突出(とつしゆつ)し且つ一面は全町侵入し
たり而して広小路(ひろこうぢ)の决潰は福知橋及び下流(かりう)の粗朶波止場、常照
寺裏下手の近来頗る浅くなり流注(りうちう)を妨げたるに原因(げんゐん)せしものら
しく是又頗(これまたすこぶ)る凄まじく堤防上なる堤防町の妓楼瓢亭平岡の二戸
を潰流し殺到(さつたう)して常盤館(ときはかん)と称する劇場(げきぜう)を流し其後なりし家屋(かをく)も
また皆之に押し流され且つ全町に侵入したり
郡町柳嶋氏は当夜(たうや)即ち三十一日午前三時 前事(ぜんこと)のたゞならぬを思
ひ走て郡役所(ぐんやくしょ)に出勤し宿直員に警告(けいこく)し尚ほ町内銀行其の他の彼(あ)
方此方(ちこち)に警告せしが当時 白波高(はくはたか)く堤防を越へんとして彼方(かなた)に跳
躍する凄(すさ)まじき光景を見たりと未だ幾くならずして轟然(がうぜん)百 雷(らい)の
落つるが如き音(おと)を聞きしがこれぞ両所(れうしよ)の相次で决潰したるもの
にして濁水殺到逃(だくすいさつたうのが)るゝに途なく漸くにして某家(ばうけ)の軒に上り二階
より更らに屋根に出で免ろを得たりとされば决潰(けつかい)は水の堤を越
へし後(の)にありて現(げん)に堤防町(どてまち)の如き堤上(ていじう)の家屋も二尺餘 浸水(しんすゐ)の跡
を印せり
斯の如き最も急激(きうげき)なる浸水(しんすゐ)なることゝ云且つ夜間(やかん)にして而も
各家屋皆(かくかをくみな)二階の軒に迄及びそことなれば家具家財等(かぐかざいとう)は一も之を
拾収するの遑なく少しく後(おく)れたるものは逃路(にげみち)を失ひて皆屋根を
穿(うが)ち漸やく屋上(をくぜう)に逃れし程にして轟然(がうぜん)たる决潰の音に続き叫喚(けうかん)
の声四方に上り或は屋上(をくぜう)に乗りて流れ行く惨況(ざんけう)眼前に見ゆると
誰も如何ともする能はず只アレヨ〳〵と叫ぶのみ見殺しにした
るも少なからずと而して浸水(しんすゐ)の最も高かりしは三十一日午前十
時頃にして暫(しば)らく湛(たゝ)へたる後は漸次(ぜんじ)引き去り九月一日正午には
最早(もはや)半ばを減じ同夕方には全く去れりされど汚泥(をでい)は盡く残留(ざんりう)し
て一切のものを汚し家具家財(かぐかざい)の流失(りうしつ)せしものも頗る多く其行衛
さへ見当(みあた)らぬものま夥多なりされば残留したる物品(ぶつひん)は一度 洗(あら)
ふと雖も到底(たうてい)旧に復ること難く畳等(たゝみとう)は大抵再び用をなさゞるべ
【右頁下段】
く仮し用をなすも浸潤(しんじゅん)したる汚泥の到底 脱去(だつきよ)すべきにあらざれ
ば寧(むし)ろ之を仕代なる方 得策(とくさく)なるべけれども今は未(いま)だ之を云ふべ
き場合にあらず
斯く千五百餘戸の全町(ぜんてう)(住民は平均二組以上五六組程宛 同居(どうきよ)す
るもの多く且つ他方(たはう)より入込みしもの多ければ確知(かくち)し難きも非(ひ)
常(ぜう)に多し)一時 水底(すゐてい)に没せしことなれば忽(たちま)ち食物に窮し金銭は
あれども買ふ処なく町役場は日々(ひび)八九石を炊出(たきだ)して之に別(わか)ち且
つ附近被害(ふきんひがい)なき地に親族知己あるものは之より送り先づ一時を
凌げども以て十分なる能はず将(は)た浸水米(しんすゐまい)はあれども之を炊(かし)がん
にも竈(かまど)なし即はち町役場二ヶ所炊出の場の外 全町(ぜんてう)一の炊烟上ら
ず且つ時 恰(あたか)も秋冷に際し夜間着衣薄(やかんちやくいうす)く而も泥に汚れて其儘湿潤
なる床上に眠る一 朝(てう)悪疫を誘発するあらば実に由々敷(ゆゝしき)大事なり
こゝ十 日間(かゝん)は尚ほ食物(しよくもつ)に非情の困難あり汚泥(をでい)に潰れたる梅干を
半濁水に洗ひつゝ都人(どじん)が恰も鯛(たい)の刺身(さしみ)を味ふが如くして食ふさ
ま思はず涙(なみだ)を催ふさしむるものあり
尚ほ困難(こんなん)なるは人夫の欠乏(けつばう)なり各村に徴発(てうはつ)して有志を募るも未(いま)
だ足らず他方(たはう)より入込むものは一日五十銭 以上(いぜう)一円五十銭を貧
り中々雇はるべくもあらずために九月二日に至るも死体(したい)の取片
付け全く終(をは)らず発掘(はつくつ)せしもの凡そ二百なるも尚ほ砂底(すなぞこ)若くは屋
下に埋まれるもの頗る多かるへきに口(そ)を急務(きうむ)と思ひながら手の
届かぬは実(じつ)に惨(さん)の惨(さん)なるものなり
予は今暫(いましば)らく記事(きじ)の進行を他に転じ惨話(さんわ)に付き聞き得たるもの
を報道せんとす固より其順序等(じゆんじよとう)は混雑の際之を立つるの遑(いとま)なく
且つ年齢等(ねんれいとう)も詳知せず読者諒せよ
土佐曹長は福知山聯隊區司令部(ふくちやまれんたいくしれいぶ)書記にして米穀取引所付属家屋
に住す蛇ヶ鼻の决水殺到するや先づ流されて夫婦(ふうふ)及一子 皆死(みなし)し
曹長及一 子(し)の死体(したい)は之を発見(はつけん)せしも妻は今日 (三日)に至るで発
【左頁挿絵中に】
丹波福知山洪水被害之図
吉田五兵衛氏
洪水之害に
遇ふの圖
洪水の際長町通の舎屋より出火せる圖
死体発掘之圖