翻刻
【右丁】
《割書:此ふみのやうにては定政いかになりぬらんとたつぬるに 人々に此|ふみわたして のち たちまち 高野の 山へ入て髪そりすて嫡子|をも入道させのこる二人の男は兄の隠岐守かもとへ遣し 妻をも|しうとの永井 信濃守かもとに かへしぬ 人々こはいかにといよ〳〵|おとろく 又掃部頭 のもとへ消息す まつみつからか名を天徳院|大居士としるす 此書には 諷諫のことはなと 少々 書のせてさて|わか所領の地より兵器雑具にいたるまて こと〳〵くに将軍家に|奉るよしをのせたり 父子ならひに郎等四人ともに入道してすみ|染の衣の下に 太刀 横たへて 銅鉢さゝけ 松平能登の入道に 物|たへ〳〵南無阿弥陀仏〳〵と申て東西の町〳〵をめくりあり|きぬ同十五日 将軍家 殿中 伺候の 大名小名に 定政か両通の書|を見せられ同き十八日兄隠岐守 定行めし て定政か所行狂気の|いたすところなれは そのつみをなためられ定行に めし預けらるゝ|所なりと仰下さるゝ 同き廿九日定政か兄 越中守定綱早馬|をまいらせて申す 舎弟能登守か事 風聞のおよふところすこ|ふる狂気に似たりといへとも かつは 又いかなるはかりことならんも|はかりかたしさるによつてすみやかに 我桑名の城をたつて|かれか刈屋の城に はせむかつてこれをまもり畢ぬ又郎等をわかつて|定政もし はせのほる事あらんにはからめとつて来るへきよしを|下知し道をさへきるのところに兄隠岐守に 預け下さるゝの旨を》
【左丁】
《割書:称して定政を給て西をさしてのほるの間 をしとゝめおきぬと注|進す此よしきこしめされて 越中守か ふるまひ神妙也と感し》
《割書:たまひける|と申也》そのゝち定政不伯入道と号し兄か領せし伊予
国松山のほとりに こもり居て 行年六十二歳にて 寛文
十二年十二月廿日に 死しけるとそ 聞えける《割書:一説に十一月廿|四日に死すと》
《割書:定政死してのち延宝元年十二月十九日 彼息男 数馬定知伝左ヱ門|定清二人御家人にめしくかへられ兄に千五百俵 弟に五百俵を賜ふ|又定政か松山にて まうけし男ありしを隠岐守 定直所領わかち|あたえん事を望しかは これも御ゆるしあつて御家人となされ》
《割書:左太夫某と申開発の田三千石|をわかちあたえしなり》