翻刻
【右頁上段】
碇|繋(けい)しありし由なるが一夜の間|遙(はる)かの山手なる陸上に漂着(へいちやく)し其
多くは壊裂せり独(ひと)り長安丸のみ艦体|破損(はそん)せず乗組員一同無事な
りと云ふ
石|鳥居(とりゐ)の流失 高(たか)さ二間半大さ五尺(ごしやく)余なる石鳥居は同夜流失
して百間余の所(ところ)にまで漂はされたり、以(もつ)て波浪の如何(いか)に激甚(げきじん)な
りしやを窺(うかゞ)ふに足る
町役場の安全(あんぜん) 釜石町役場は高地(かうち)なりし為め害(がい)を被らざるを
得たり先(ま)づは不孝中(ふかうちう)の幸と云ふべし
港内の光景 釜石港内には民屋の破壊(はくわい)せしもの或は船舶の粉(ふん)
韲(さい)せしもの此処彼処に充塞(じうそく)して宛(さ)ながら秋風の落葉(らくえふ)を吹き寄せ
たるが如し
水産補修学校員の無難(ぶなん) 同校教員及び生徒(せいと)は夜間小学校内に
詰め居りし為め一同|事(こと)なきを得たりと云ふ
餓虎の肉(にく)を争ふに似(に)たり 生存者は自己(じこ)の負傷(ふしやう)を忘れて只管(ひたすら)
遺流品の収拾に狂奔(きやうほん)し居れり是れ人情の然(しか)らむしる所とは言へ
拾ひ取りたる漁網若くは物品を争(あらそ)ふて端なく口論(こうろん)を生じ果ては
鉄拳の雨を降(ふ)らすもの少(すくな)からず浅ましの所為(しょゐ)と謂ふべし
当時(たうじ)皆川虎吉なる者(もの)は当人并に妻(つま)と娘と孫と一家四人悉く死
し、杉山安次なる者(もの)の妻(つま)は其二子を負(お)ふて走る時(とき)、波(なみ)に倒され
て、二|子(し)を奪(うば)ひ去(さ)られたりと、悲酸(ひさん)の状実に察(さす)すべきなり。
重もなる溺死者 岩手県会(いわてけんくわい)議員(ぎゐん)たる小軽米汪氏 (《割書:三十|五六》)は細君(さいくん)并
に書生(しょせい)三名と共に一|家残(かのこ)らず溺死し収入役(しうにうやく)金崎祐蔵氏夫妻共に
溺死(できし)して養女一|名(めい)生存(せいぞん)せるのみ又町会議員猪又勘三郎氏の家族
九名皆溺死せしも氏自身(しじんしん)のみは重傷(ぢうしやう)を負(お)ひながら一|命(めい)を助かり
て今(いま)赤(せき)十|字社(じしや)病院(びやうゐん)に在り
見す〳〵|捲去(まきさ)らる 釜石町(かまいしまち)字沢村に於(おい)ては十人ほども崩(くづ)れし
材木(ざいもく)の間に挟(はさ)まれつゝ|頻(しき)りに声を揚(あ)げて助けを呼(よ)びしも何分激
【右頁下段】
浪怒濤の中(なか)にあるのみならず人手(ひとで)少(すく)なくして力及(ちからおよ)ばず僅(わづ)かに三
人を救助せるのみにて其余(そのよ)は見す〳〵|逆浪中(ぎやくらうちう)に捲(まき)去(さ)られたりと
○樹上に玩弄物(ぐわんろうぶつ)を弄ふ 釜石(かまいし)町にては三|歳(さい)の幼兒か蒲団(ふとん)に包(つゝ)
まれ玩弄物(ぐわんろうぶつ)を持ちて戯(たわむ)れ居りしに俄然(がぜん)海嘯(つなみ)に襲はれて一|家挙(かこぞ)つ
て溺死(できし)せしに独り件(くだん)の幼兒(えうじ)のみは激潮(げきてう)に押流され蒲団(ふとん)と共に樹
枝に懸りながら尚ほ玩弄物(ぐわんろうぶつ)を持ち嘻々(きゝ)として遊(あそ)び居たりと云ふ
(挿図参看)
○溺死者金庫の鍵(かぎ)を持去(もちさ)る 釜石町役場の金庫(きんこ)は無事に拾ひ
上げられたるも其鍵(そのかぎ)を預り居れる収入役某の溺死(できし)したる為め金
庫の金は急場(きふば)の用をなさず役員等は拱手(きようしゆ)唖然(あぜん)
巡査教員の死亡者 釜石(かまいし)警察署は流失(りうしつ)して署長以下十四名皆
負傷(ふしやう)し巡査一名|死亡(しぼう)したるを首め各村|駐在所(ちうざいしょ)は大抵|流失(りうしつ)せしが
為めに其巡査多くは家族(かぞく)と共に死亡したれば巡査(じゅんさ)の死亡は総数(そうすう)
十四名あり又|各村(かくそん)の小学校|訓導(くんだう)にして死亡したる者六名ありと
姉(あね)の首のみ残る 釜石町役場の書記|某(ぼう)は当夜(たうや)宿直なりしかば
海嘯(つなみ)の引去るを待(まち)て我家に立帰りたるに案(あん)の如く全く潰家(つぶれや)と為
り居るにぞ責めて家族(かぞく)の遺骸にても引出さんと屋根(やね)を剥(は)がし雑
具(ぐ)を片付け見れば其|姉(あね)の首のみ木材(もくざい)に挟まれて残(のこ)れる外他の屍
体(たい)一もあらざりしと(挿図参看)
遭難(そうなん)を知らずに助(たす)かる 釜石町字平田にて小学校(せうがくこう)教員照山某
は大酔(たいすゐ)して前後も知らずにグッスリ熟睡(じゆくすゐ)し居たる折柄(をりから)海嘯(つなみ)の押
寄(よ)せ来りしかば妻が某を呼び起(おこ)し置き己(おの)れ先づ外に逃出(にげだ)したり
然(しか)るに某は一旦目を醒(さま)せしも酒に酔ひし癖(くせ)とて其侭又も眠(ねむり)に就
き斯る危急(ききふ)の場合を夢(ゆめ)にも知らずして浸入(しんにふ)し来れる海水(かいすい)に浮き
つ沈(しづ)みつ板の間に転々(てん〳〵)しありたる末漸く目が醒めて夫と心付(こゝろづ)き
宅外(たくぐわい)に飛出せしが最早や此時は退水後(たいすゐご)の事とて其身は別条(べつでう)無き
を得たりしも却て早く逃出(にげだ)したる妻は押流(おしなが)されて溺死したりと
【左頁挿絵二枚】
【上題】
唐丹の小学校教員某の幼兒樹間に掛りて一命を拾ふの図
【下題】
浅野音松舩板に縋りて三日間海上に漂ふの図 (釜石町)