翻刻
【右頁上段】
陸中海岸中の富裕(ふうゆう)なる村にして従(したがつ)て生計(せいけい)の度(ど)も進み土蔵、納(な)
屋蔵等堅牢のもの多(おほ)かりしに全村三百廿六戸|而(しか)も背后の高地(かうち)に
在りし民家迄拭ふが如(ごと)く洗ひ去り影(かげ)も形も止めず殊(こと)に地面を一
掃して下(か)部地層を現はし何れが道敷(みちしき)なりしか何(いづ)れが宅地(たくち)なりし
かを分別する能はさるに至りては只震慄するの外(ほか)なきなり而(’しかう)し
て又|惨死(さんじやう)を遂たる者は実(じつ)に千八百五十人|生存(せいぞん)せる者百八十三人
に過(すぎ)ず生存者中六十|人(にん)は漁業の為(ため)に沖合に在(あ)り難を免れ二三十
人は牛馬(ぎうば)を駆りて山(やま)に在りて害を被(かうむ)らずとすれは其(その)全(まつた)く生存(せいぞん)せ
しは僅々九十|名内外(めいないぐわい)のみ若し七十|余人(よにん)の重傷者を引去れば僅々
二十|人(にん)の無事なるを見るのみ豈(あに)悲惨(ひさん)の極に非ずや
海に在りて難(なん)を免る 此日(このひ)同村(どうそん)の漁夫六十|人(にん)は十五艘の鮪船(しびふね)に
乗りて艮位(じんゐ)二|里許(りばかり)の沖合に漕出(こぎいで)鮪網を曳てありしが陸地(りくち)の方に
当(あたつ)て不思議にも汽車(きしゃ)の響きの如(ごと)きを聞き訝かり怪(あやし)む事大方なら
す仔細ぞあらんと力(ちから)を合せ船を陸(りく)へと引返す途中(とちう)三回の大激浪
に遭遇(さうぐう)せり愈々怪しさに堪(た)へされは必死となりて港口(かうこう)に漕寄(こぎよ)せ
しに材木(ざいもく)の流れ来るもの数を知らす然(しかれ)とも波(なみ)は非常に高くして
入港思ひも寄(よ)らされは碇(いかり)を港口(かう〳〵)に卸(おろ)して陸上を望(のぞ)みたるに如何
なる故にや全村(ぜんそん)一点の灯火(とうくわ)を認めず稍(やゝ)ありて岩の角(かど)山の上より
助(たす)け声を聞く頻りなれども真(しん)の暗とて如何(いかん)ともする能はず天明(てんあけ)
くるを待ちて港内(かうない)に入れば昨日(さくじつ)迄人煙繁華の処(ところ)蕩然(たうぜん)として一荒
土となり家族財産挙りて藻屑(もくづ)と消え居たれば七十|人(にん)の落胆は云(い)
ふ迄(まで)もなく悲惨(ひさん)極まりて涙(なみだ)さへ出るものなかりしといふ
○不孝の巡査 同村(どうそん)駐在所詰巡査種市愛仁氏は明治(めいぢ)九年以来
二十余年一日の如く励精(れいせい)せし人にて県内(けんない)第(だい)一の古株(ふるかぶ)なりしに一
家(か)を挙て惨死(さんし)を遂たり無惨(むざん)々々、又同所巡査高橋為治|氏(し)も其妻
子と共に激浪(げきらう)に惨殺(さんさつ)さる
○警官の機敏 米良(めら)宮古(みやこ)警察署長は罹災者(りさいしや)が遺物遺金を盗掠
【右頁下段】
せんことを慮(おもんはか)り巡査を派して其(その)保管(ほくわん)を厳にせしかば田老は山
田の如(ごと)くならずといふ
○扇田栄吉 田老(たらう)の財産家なり海嘯(つなみ)の当時波に浚(さら)はれ身は材
木の間に介(はさ)まりて海中に漂(たゞよ)ひ動くことならざりしに第(だい)二回の激
浪の然め材木(ざいもく)緩(ゆる)みて其間より首(くび)を出す途端(とたん)三回目の波にて沖に
持去(もちさ)られ僅に岩(いは)に取付て助(たす)かれり而して一|家(か)十|人(にん)の内残るは栄(えい)
吉一人のみなる上(うへ)全身(ぜんしん)負傷したれども聊(いさゝ)か屈する色もなく村長
不在中臨時代理を命(めい)ぜられたるを幸(さいは)ひ生存者の救護(きうご)に付非常に
力を尽(つく)し居れり
●北閉伊郡
●小本村
小本村(をもとむら)は田老の北三里に在(あ)る漁村にして小本川の口(くち)に在り其(その)惨(さん)
状(じやう)亦(また)激甚(げきじん)にして田老に亞(つ)げり今被害の統計(とうけい)を示せば大字小本に
於て流亡家屋六十一戸、惨死者(さんししゃ)ニ百四十四人、字中野に於(おい)て流亡
家屋四十戸、惨死者六十九人、字(あざ)小成(をなり)に於て流亡家屋九戸、惨(さん)
死者(ししゃ)二十五人あり海岸一|帯(たい)を洗ひ去られし事田老に同(おな)じく惨状
目も当(あ)てられず
巨巌と河底の変動(へんどう) 小本川の入口(いりくち)に一丈五尺程の巨巌ありし
が大海嘯の為に三百間許の上流(じやうりう)に飛ばされて水面に現(あら)はるゝこ
と五尺に過(す)ぎず而して小本川の底(そこ)も海嘯前に比して数丈(すうじやう)の深さ
を増加せり
中野の変象 小本村(こもとむら)の中なる中野にては沖(おき)の鳴るかと思ふ間
もなく家屋破壊陥落し然(しか)る後海嘯の襲ひ来(きた)るを見しと云ふ
○並木と家屋(かをく)の陥没 小本(をもと)の内に洲賀(すが)といふ一|部(ぶ)落あり二十
八戸の漁村(ぎょそん)にして其|南岸(なんがん)一帯にニ百|年来(ねんらい)の松並木ニ百五十本許
を有せしが家屋(かをく)も並木も陥没して痕跡を留(と)めず住民(ぢうみん)も亦(また)其中(そのうち)に
埋(うづめ)られて他に在(あ)りしもの五六名の無事なりしに過ぎず
【左頁挿絵二枚】
【上題】
海嘯災後の夜景
【下題】
地中の人声を聞て救出の図 (釜石町)