翻刻
【上段】
●田の畑村
田の畑村(はたむら)は小本村の北(きた)に在り松前沢(まつまへさわ)、平井賀、羅賀、島の越の四
大字より成る其(その)被害(ひがい)統計(とうけい)は松前沢に於て流亡(りうばう)家屋一戸、残余(ざんよ)二
戸(こ)、死亡四人、生存者(せいぞんしゃ)十三人、平井賀(ひらゐが)に於て流亡家屋四戸 (全滅)
死亡(しぼう)十三人、生存者十二人、羅賀(らが)に於て流亡家屋十六戸、残余(ざんよ)
十六戸、死亡百二十二人、重傷(じうしやう)十人、生存者百六十三人、島(しま)の
越(こし)に於て流亡家屋二十七戸、残余(ざんよ)二十八戸、死亡百二十八人、
重傷三人、生存者(せいぞんしゃ)百九十一人あり船舶(せんぱく)は一艘を余さず流亡破壊
し且又|海岸(かいがん)に在る十三個の塩釜(しほがま)を失へり
○隣家(りんか)の小兒と共に助(たす)かる 田の畑の或る漁夫(れうふ)の妻は六人の
小兒ありしか兇変(きょへん)の際誰一人助くる事出来ず僅(わづ)かに身を以て戸
外に出てたる際|隣家(りんか)の小供に帯(おび)に取つかれ二人共々波にゆられ
て漂(たゞよ)ひたりしか漸く潰れたる家の屋根(やね)に這上(はいあが)りて一命を助かり
たり(挿図参看)
●普代村
普代村(ふだいむら)に於ては同村大字太田|名部(なべ)四十二戸の内一戸を余(あま)し人員
十一人、(内(うち)男三人女八人)を余(あま)して他は悉く流失溺死小本普代
の医師(いし)は皆不孝にして負傷(ふしやう)臥床中なるを以て岩泉及び小川村(をがはむら)よ
り医師を迎(むか)へ負傷者を救護(きうご)致し居れり
○三日目にて堀居(ほりいだ)さる 普代村にては事変後(じへんご)三日目に生れて
三四ヶ月ばかりなる嬰兒(えいじ)の頻に啼(な)き立つるに何れにと捜索(さうさく)した
るに全身(ぜんしん)泥砂(でいしゃ)に塗れ口にも砂の埋(うづ)もりたる故呼吸もたえ〳〵に
て僅に土中(どちう)より頭を出し居たるを発見(はっけん)したるか体温のあるを便
に種々介抱せし処|漸(やうや)く蘇生したりとは不思議(ふしぎ)の事なり
木村(きむら)総三郎氏 は普代村字太田名部の豪族(がうぞく)なるが氏の家族(かぞく)も
亦全滅し独り十五才の長子|宮古町(みやこまち)にありて免れたるのみなり
一|歳(さい)未満の小兒樹上に泣く 変災(へんさい)の翌朝太田名部村の村民
【下段】
屍体(したい)を捜索するや五丈余の樹上(じゆじやう)に小兒(せうに)の泣声(なきごえ)を聴き之を救ひた
るに幸にして身(み)には些少(させう)の傷だになかりしも父母兄弟なく某氏
の許(もと)に養育(やういく)され居るといふ
海嘯(つなみ)の高さ十丈 海嘯は所々(しょ〳〵)に五丈余の高さに達(たつ)したる跡を
留めて家屋(かをく)等に激(げき)したる所にては明かに十丈に上りたる形跡(けいせき)を
認む
●安家村
◎無罪と大海嘯 安家村|島川(しまかは)直諒(ちょくれう)は同地有名の財産家(ざいさんか)なるか
先頃(さきごろ)或者より私林(しりん)盗伐(たうばつ)の告訴を受け盛岡|地方(ちほう)裁判所にて無罪(むざい)と
なりしを検事(けんじ)より宮城控訴院へ控訴(こうそ)されしも矢張り無罪の宣告
を受けたれは喜んで帰家(きか)せし処去十五日の大海嘯にて直諒|始(はじ)め
一家十余人|残(のこ)らず溺死せしと云ふ
●南九戸郡
●下安家村
下安家村 玉川(たまがは)村の南方一里の所に在りて此村(このむら)も安家川に
臨(のぞ)む川は此辺の大川にして川口(かはぐち)を距る四五町の所に二大橋あり
しも今は橋桁(はしげた)さへ留めず戸数(こすう)僅か十二戸なりしが全村(ぜんそん)流失し死
亡人員は四十五名なり傷者(しやうしや)の数未だ詳ならず
島川(しまかは)文平氏 は下安家の人にして堀内村(ひりうちむら)の熊谷善六氏と南北
十五六里間に一二を争ふ財産家(ざいさんか)なり山林二千余町|歩(ぶ)を所有し年
々販売する材木(ざいもく)尠ならざりしが海嘯の当日|不幸(ふこう)にも全家十七
名挙げて死亡(しぼう)し今日まで屍体(したい)の発見(はつけん)されたるもの僅(はづか)に六名に過
ぎず文平氏の孫(まご)某 (当年九才)宇部村の小|学校(がくこう)にありしが為め一
命を全ふしたるも齢(よはひ)未だ人生の何たるを解せず人(ひと)をして特に腸
を九|回(くわい)せしむ
●玉川村
玉川村 は野田村(のだむら)の南凡そ一里余、玉川河口にある二十余戸