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【右頁上段】
長きに亘り方向(はうかう)は東北東、西南西(せいなんせい)にして頗る緩慢(くわんまん)なりし次で同
時(じ)五十三分三十秒|微震(びしん)し尚八時零二分三十五秒八時二十三分十
五秒八時三十三分十|秒(べう)八時五十九|分(ふん)零秒(れいべう)に微震し其後九時より
十時迄の間(あひた)に四回十時より十一|時(じ)の間に一回十一時より夜半迄
に二|回(くわい)の微震(びしん)ありて計十三|回(くわい)震動(しんどう)せり而して海嘯(つなみ)の起り始は
(海水(かいすい)の減退(げんたい)し始し時刻)夜間(やかん)にして精測(せいそく)し能はざれども凡そ七
時五十分|頃(ごろ)にして同八時頃に増水(ぞうすい)し暫時にして稍(や)や減退(げんたい)せしが
八時七分に至(いた)りて最大の海嘯(つなみ)来(きた)り凡そ一|丈(ぢやう)四五尺の高さなる激
浪(らう)轟々(ぐわう〳〵)遠雷(ゑんらい)の如き響をなして襲撃し忽諸(こつしょ)の間に家屋人畜(かをくじんちく)を一掃
し去れり爾後(じご)著(いちじる)しきものは六|回(くわい)にして翌日(よくじつ)正午迄は幾分の増減
ありしものゝ|如(ごと)し又|地震(ぢしん)は翌十六日は十三|回(くわい)十七日は十二回十
八日は六|回(くわい)にして孰(いづ)れも微弱震なりし云々
扨又|今回(こんくわい)の大海嘯に付|其筋(そのすじ)の人々に就(つ)きて聞き得(え)たる意見の概
要を挙(あ)くれば左(さ)の如し
震源地は何処なるか 今回(こんくわい)の海嘯(つなみ)を地震(ぢしん)の結果とせば其震源
は何れの処にあるぞ事実(じじつ)の示す所に依(よ)れば其当りは大凡付け難
きに非ず即ちタスカローラの深海(しんかい)こそ其震源に相違無(さうゐな)し
タスカローラの深海 古伝説(こでんせつ)の如く地震(ぢしん)を大鯰の動く結果と
せば其大鯰の棲処(すみか)はタスカローラの深海(しんかい)なり此深海は英船(えいせん)タス
カローラ号(がう)が測量して発見(はつけん)したる結果として斯(かゝ)る名前を付せら
れたる次第なるが位置(ゐち)は北太洋の日本(にほん)陸地(りくち)に併行する部分に在
りて日本陸地を距(さ)ること最も近(ちか)き処は僅かに三四十里に過(す)ぎす
其(その)水源(すゐげん)(四千メートル一万三千二百尺)にして加之|断岸(だんがん)絶壁(ぜつぺき)の如
く其(その)部分(ぶゞん)だけ急に深(ふか)く成り居る事にして恰(あたか)も太平洋中に東西幾
十里南北幾十里に綿亘(めんこう)せる大なる切竪(きつたて)の穴あるが如し此海の底
より見れば普通(ふつう)の太平洋の底(そこ)は恰も富士山(ふじさん)より殆んど一千尺も
高き訳(わけ)にして今日迄の処にては世界第(せかいだい)一の深海と称(せう)せらる此の
【右頁下段】
深海の四方は屏風(べうぶ)の如く絶壁(ぜつぺき)を以て囲まるゝこと故(ゆえ)地滑(ぢすべ)り甚だ
多(おほ)きは数の免(まぬか)れざる所にして其(その)|地滑りの度毎に日本及び其(その)近海(きんかい)
は多少の地震(ぢしん)を感ぜざるを得(え)ず従来日本に地震多きは実(じつ)に此鯰
の棲処(すみか)に密接(みつせつ)すればなり而(しか)して今回の地震(ぢしん)も亦た其震原は此深
海の方面(はうめん)に在り
震原推断の証拠 中央(ちうあう)気象台(きしやうだい)の報告に依(よ)れば東京に最(もつと)も近き
処にて津浪(つなみ)のありしは福島県(ふくしまけん)標葉(しやうは)郡付近にして東京(とうきやう)を距ること
最(もつと)も遠き所(ところ)にて津浪(つなみ)のありしは北海道の東南端(とうなんたん)襟裳岬付近の地
方なり此(この)両極点は津浪(つなみ)と云ふの津浪にはあらざれども兎(と)に角(かく)津
浪と見るべき現象(げんしやう)の有りしには相違無(さうゐな)ければ仮りに之(これ)を両端と
し而して津浪の最も激烈(げきれつ)なりし陸中の釜石(かまいし)を中心として其形勢
を案(あん)ずるに大約(だいやく)左(さ)の如(ごと)し
【図説】
震源 (タスカローラ海の辺)
襟裳岬 釜石 富岡
右(みき)の如く震源(しんげん)に最も近(ちか)き釜石にして其(その)被害(ひがい)も多く襟裳と富岡は
両端にして其|被害(ひがい)最も少く而して富岡より震源(しんげん)に至るも襟裳岬(えりもみさき)
に至るも其|距離(きょり)は大凡そ相|匹敵(ひつてき)し居る所より見れは震源は釜石
と遙かに相対(あひたい)するタスカローラの深海(しんかい)見当(けんたう)に在りて之より諸所
へ震動の影響(えいきやう)を波及し両端(りやうたん)に至りて漸く薄らぎたるを知るに足
れり此(この)推算(すゐさん)は固より正確(せいかく)なるを保するを得ず又た果(はた)して地震源
地盤の陥没に因るや若(もし)くは隆起(りうき)せしに因るかを判(はん)し易からずと
雖も此証拠物に依りて之を推すに当らずと雖も遠(とほ)からざる判断(はんだん)
なりとす
●岩手県被害報告
【左頁上段】
本月十五日は天候(てんこう)朝来朦朧として温度は八十|度(ど)乃至九十度を昇
降し平年に比(くら)すれは其暖きこと十度以上にして人々(ひと〳〵)大に困めり
然(しか)れども季節の不順(ふじゆん)なるは梅雨の常にして殊(こと)に時恰も旧暦|端午(たんご)
の節(せつ)なるを以て各|町村落(てうそんらく)に於ては或は親戚(しんせき)訪問し相祝するあり
或は友人相会し宴飲(えんいん)するありて各歓を尽(つく)しつゝありしが暮夜に
至り数回(すうくわい)の地震あり又午後八|時頃(しごろ)東閉伊郡沖合に於て轟然一発
巨砲(きょほう)を放(はな)ちたる如き響音ありたれど沖合(おきあひ)の鳴動は普通のこと或は
軍艦の演習(えんしふ)ならんと信じ更(さら)に意に介する者(もの)あらざりき然(しか)るに其
響音の歇(や)むや未(いま)だ数分間ならざるに海嘯(かいせう)俄(にはか)に至り狂瀾天を衝(つ)き
怒濤地を捲(ま)き浩々として驀地押し寄(よ)せ来り市街(しがい)となく村落(そんらく)とな
く総て狂瀾汎濫の没(ぼつ)する所となり沿海(えんかい)一帯七十|余里(より)僅かに一瞬
間にして人畜家屋(じんちくかをく)船舶其他(せんぱくそのた)挙て殆んど一掃し去れり輙ち昨日ま
で家屋櫛比の市街(しがい)も今(いま)や変(へん)じて平沙荒涼となり死屍(しし)は累々堆を
為し家屋(かおく)は流壊し満目一として悽寥ならざるなし其(その)惨状(さんじやう)実(じつ)に戦
粟に堪(たへ)ざらしむ而して其(その)狂瀾(きやうらん)の高きは八十尺|以上(いじやう)に騰れりとい
ふ潮声の緩急は固(もと)より一定せずと雖(いへ)も西南に面(めん)する処最も浸害
甚だ多(おほ)し
然(しか)るに当日|沿海(えんかい)を隔て約二|里(り)の遠沖に於(おい)て漁猟せし漁夫等は稍
や波浪の高(たか)きを覚(おぼ)えたるのみにして斯(かゝ)る兇災のありしを知らず
陸地に到着(たうちやく)して始めて海嘯(かいせう)の被害を知(し)りたりと云ふまた奇と云
ふべし
因(よつ)て被難者救助の為め警部長(けいぶちやう)をして各|被害地(ひがいち)を巡視せしめ且書(かつしょ)
記官(きくわん)を東閉伊郡地方に参事官(さんじくわん)をして気仙郡南閉伊郡地方に収税
長を九戸郡地方に派出(はしゅつ)し指揮を司(つかさど)らしめ而して県属(けんぞく)警部は気
仙地方に九|名(めい)、南閉伊郡東閉伊郡十二名、南北(なんぼく)九戸郡に三名、西
閉伊郡に一名、北閉伊郡(きたへいごほり)に二名を派遣(はけん)し巡査百十三名は被害地(ひがいち)
各地(かくち)に配置(はいち)し之(これ)に人夫(にんぶ)四百五十八人を随(したが)はしめ夫々生存者救助
【左頁下段】
死体取(したいど)り片付等に従事(しゆうじ)せしむ其他各町村の消防(せうばう)夫及有志の寄付
にかゝる人夫等を合(あは)せて四千余人を派遣(はけん)せり
如此なるが故に医師(ゐし)の死亡(しぼう)も少なからず適々|死(し)を免(まぬか)れたる者あ
るも薬品(やくひん)機械(きかい)等皆|流失(りうしつ)一も遺す処なし因て不取敢(とりあへず)多量の石炭酸
繃帯綿繖糸等急救用として送付(そうふ)したれども到底(とうてい)此等の医師のみ
にては完全(くわんぜん)なる救療を為(な)すこと能はさるを以(もつ)て医師十五名看護
人十五名を臨時(りんじ)に雇上げ負傷者(ふしやうしや)救治に従事せしむるも負傷者の
多数(たすう)なる尚ほ不足(ふそく)を感ずると雖(いへ)ども如何せん当地方(とうちほう)医師(ゐし)の少数
なるを以て大困難(だいこんなん)を来(きた)し居る処恰も好し第二師団(だいにしだん)より軍医十
二、赤十字社より医師七名、薬剤師二名、看護人二十八名を派(は)
遣(けん)せられたるを以て大(おほ)に便を得たり然(しか)れども之れを以(もつ)て未だ十
分なりと云ふを得(え)ざりしに復々(また〳〵)第二師団より工兵一少隊之れに
軍医一名を付(ふ)せられ又|福島(ふくしま)赤十字社|支部(しぶ)より医師看護人一名差
遣ありたるを以て工兵(こうへい)は宮古地方に向け医師(ゐし)も各被害地に向(むか)は
しめたり其他(そのた)尚被害地|近隣(きんりん)の町村より医師数十名をして治療に
従事せしめ且(か)つ各被害地より夫々(それ〳〵)請求(せいきう)ある毎に薬品(やくひん)機具等(きぐとう)を今
尚|送付(そうふ)しつゝあり去れども田園(でんえん)は荒廃し家屋(かをく)は流亡し居るに家
なく食(くら)ふに米なく今や飢餓に迫(せま)るを以て白米(はくまい)一千石余を被害各
地に送付(そうふ)し窮民の救助(きうじょ)に充てたり猶(なほ)各郡の状況は左の如し
気仙郡は被害(ひがい)各郡(かくぐん)中廣袤最も強(つよ)く被害(ひがひ)の部分も少(すくな)なからず廣田
村六ヶ浦と称(せう)する所の如(ごと)きは水面より高(たか)きこと五丈余の所にあ
る民家(みんか)を砕(くだ)き激波の為め数丈の高(たか)き山頂に船(ふね)を打揚げ巡査駐在
所は流失(りうしつ)し駐在巡査は重傷(ぢうじやう)を負(お)ひ家屋は皆流亡せり
末崎村に於(おい)ては巡査|駐在所(ちうざいじよ)流失駐在巡査一重傷を負ひ家族六名
皆死亡せり大船渡の如(ごと)きは沿海十八町余間の電柱(でんちう)悉(こと〳〵)く折れ小友
村は浸害|田畑(たばた)百八十余|丁歩(てうぶ)に渉れり
綾里村(あやさとむら)の如きは死者(ししゃ)は頭胸を砕(くだ)き或は手を抜(ぬ)き足を折り実に名