翻刻
沿道の士豪皆迎へ降る三州作 平(手)の奥平美作守長篠の菅沼新九郎田峯の菅沼大膳之介等亦家康を
退き信玄に属し遠州乾の城主天野氏又家康を離れて甲州勢を引入れ大挙して鈴木三郎大夫が在
城せる山吉田の柿本城に殺到す。
眇たる孤城四面皆敵僅に数百の手兵を以て幾万の強敵に対す殊に三郎大夫重時は堀江城攻めに
戦死の後なり、嗣子重好は当時猶十四歳の少年祖父長門守は七十余歳の老武者なり勝敗の数知
るべきのみ、将卒共に全滅を期して防戦数日の後甲軍井代の城主菅沼常陸守を以て和議を提唱
す、軍使の往復九回に及び終に開城し遠州伊平小屋なる鈴木出雲守の砦に引退く。此役に井伊
飛騨守及鈴木権蔵重俊戦死す。于時元亀二年十月二十二日なり。
上 吉 田 城
所在地 八名郡上吉田村字白倉
鈴木三郎太夫の父長門守重勝の居たるところといふ。
大永四年鈴木長門守重勝(二十一歳)築くところなり。
南設楽郡之部
長 篠 城
所在地 南設楽郡長篠村大字長篠字市場
永正五年五月今川氏親の将菅沼元成の築くところにして、其子孫俊則、元直、貞景、正貞代々
の居城たり。元亀二年三月武田氏の将天野宮内左衛門景貫其子小四郎景広来り攻むれば、新九
郎正貞迎へ戦ふて激戦あり菅沼道滴始め互に死傷す。城兵城に入りし時、武田の将秋山伯耆守
晴近来りて城を囲みしが、田峯の臣城所道寿、正貞の一族城将伊豆守満直を謀つて遂にこれを
下したり。依つて正貞満直の子、八左衛門を質子として武田に送れり。こゝにおいて武田氏、
室賀一葉軒、小泉源次郎、吉田左馬助等を加番としておく。後天正元年七月、徳川元康兵三千
を率ひて来り攻む。城兵これを知り、謀を廻らし、特更に旌籏を倒し、又鐘鼓を鳴らさず、恰
も人なきが如く装ふ。元康試に火箭を放てば、此日偶々南風烈しく火移りて忽ち二の丸其他外
廓を灰燼とす。城兵為に進退を誤り、漸くにして本丸に引き退きて防禦せるも、これがため軍器
兵糧多く焼失して戦闘力を失ひければ、出でゝ戦ふことをなさず。元康これを見て敢て一挙に
陥擠することをなさず、三輪川の東岸、久間山、中山の二砦に酒井忠次、菅沼定盈を止めて守ら
せ、寒狭川の前岸有海原古呂水阪篠原岩代の要処に配備して浜松にかへりけり。此報甲州に伝