翻刻
【左ページ上段】
日営める跡なりとぞ。 (挿画参看)
●顛落列車の引揚
日本鉄道会社にては。遭難後、三日目より顛落列車の引揚に従
事せり。今其の実況(じつきやう)を記さむにまづ。箒川鉄橋に橋下の河原よ
り長梯子(ながはしご)を掛けて。人夫の昇降に備(そな)へ。其傍らに丈余の杉丸太
二本を立て掛け上部に横木一本を渡し。綱数条(つなすうでう)を垂下し之に滑
車を附し破壊(はくわい)せる扉、金具等を一括し。幾度となく。橋上に引き
揚たり。橋上にては。之を貨車に堆積(たいせき)して。野崎停車場構内置
場に輸送(ゆうそう)す。また列車の破損(はそん)して全形(ぜんけい)の存するものも。更に破
壊して引揚(ひきあげ)たることなれば。九日早朝より着手(ちやくしゆ)し。翌十日夕刻
に至りて。漸く終了せり。人夫は駅夫工夫并に附近(ふきん)の村民、消
防夫等六百余人を要(えう)したりと。
●箒川大施餓鬼
十月十三日は惨死者の初七日に相当せしを以て。日本鉄道会社
にては死者の霊魂(れいこん)を慰弔(ゐてう)する為め。遭難場所に於て盛(さかん)なる大法
会を行(おこな)ひ。会社よりは。富田、久米、菊地、酒井、青山、林、久野七
氏の重役臨場し。又東京より浄土宗大本山増上寺住職大僧正山
下現有、深川霊巌寺住職神谷大周氏以下各宗僧侶五十八人。其
他築地本願寺門跡代理真宗尚徳会総代二人出張し。之に宇都宮
矢板野崎に於ける各寺院の僧侶約二百余人を加へて。参列の僧
侶は無慮(むりよ)三百人に及び。式場及び祭壇は。箒川(はうきがは)の河原に設け。
祭壇(さいだん)には。会社は勿論地方有志の寄贈(きそう)に係る供物を備へ。笹竹
紅白の旗総(はたすべ)て普通施餓鬼に於て見る所の光景(くわうけい)と異るなく。各参
列者は総て野崎停車場に集(あつま)り。同所に於て斎飯(さいはん)を供し。夫より
一同列を為し伶人の奏楽(そうがく)によりて。粛々式場に臨みたり。式場
に参列(さんれつ)したるものは。会社重役、久保運輸課長、各宗僧侶を首め
とし遭難者遺族、宇都宮県立病院副院長、神野病院長関係地方の
【左ページ下段】
郡村長及び遭難の当時救済に尽力したる野崎、矢板、其他附近の
消防夫等無慮一万人にして。神谷大周氏先づ霊前にて弔文を誦
読し。次に重役を首め其他参列者一同順次に焼香(せうかう)を行ひ。神谷
僧正一場の説教(せつけう)を為し。遺族及村民に十念を授け。次で参列地
方村民に夫々供物を施(ほどこ)したるが。式の全く終りたるは。午後三
時なりしと。
●遭難余聞
▲惨死中の惨死者 山形県南置賜郡窪田町内藤久左衛門は。
惨死者(ざんししや)の一人にて。其の姓名は屍体に添へたる手紙(てがみ)に依りて判
明したり。死骸は野崎村字中島に於て発見(はつけん)せられたるが。眉間
を割かれて手に一通の電報を握り居れり。其の電文は同人の出
張先きなる。東京本郷区の某所(ぼうしよ)に宛て。其の郷里なる親類(しんるゐ)より
発(はつ)したるものゝ如く電文(でんもん)には。
ゴシソクタイビヤウスグカヘレ (御子息大病直ぐ帰へれ)
とあり。最愛(さいあい)の子の郷里(きやうり)に於て死に瀕(ひん)したるを以て。倉皇電報(さうくわうでんぱう)
を握(にぎ)りたる侭帰途に上り。途中此|不幸(ふかう)に遭ひ無惨(むざん)の死を遂げた
るものなり。
▲父の屍に枕す 別項負傷者内藤久三郎は。父久左衛門の死
屍を眼前(がんぜん)に見つゝも言語(げんご)を発する能(あた)はざりし為め。其父なる由
を人に告ぐる能はざりしもの殆んど半日。
▲不意の出来事(できごと)に無惨の死(し)を遂げ。孰れも悲惨を極めぬはあら
ねど。栃木県人高松駒次が親戚なるミサ (十四)と共に同じ非業
に斃(たふ)れたると。福島県廣瀬郡大屋村の渡部紋之助 (六十三)が同
クマ、同ヒサ、星テツ、金子吉次郎五人の親族共に東京見物の帰
途を其侭帰らぬ旅路に門出せしなど。最も哀れなるものなるべ
し。
▲裸体となりて良人を追ふ 別項(べつこう)にある死亡者(しばうしや)内桶すみは。