翻刻
芝浦に垂釣を試みむと欲し。約を履て払曉舟夫の家に至りしに。
舟夫は天候を察し。暴風の兆あれは舟を出し難しとて。断然之
を拒みしことありき。夫れ舟夫の如き賤丈夫も。自己の金銭を
獲ざるに拘はらず。其の責任を重して辞すること此の如し。況
や堂々たる会社等に於てをや。豈に暴風雨の危険を冒し。其責
任を軽すべけむや。現に東海道鈴川附近の漲溢に際し。沼津発
の列車は。進行中機関運転手前途に危険の虞あるを認め。急に
背進して能く其の難を免かれたるにあらずや。日本鉄道会社の
汽車は。進行を停ることを為さず。勾欄の設けなき橋梁を疾過
せむとせしは。警戒を怠たりしものといはさるを得ず。今後は
諸道の汽車共にかゝる暴風雨等あるの際は。力めて保安を主と
し乗客の云云するに關せず。必らず危険を避けて進行を停止す
べし。
嗚呼前車の覆りしは後車の戒なり。当時箒川に於て死傷せし者
に対しては。実に追悼慰撫の情に堪へざるも。後来諸道汽車の
台警戒と為すに足れり。豈に大利ある者の大害あるは。其の常
なりとして。予防の策を等閑に附するが如きことあるべけむや。
凡そ汽車の類は。衆人の生命財産を載せて旅程に上るものなれ
は。最も其の責任を重じ。世の翁媼をして。往昔の旅行は困難
なりしも。却て安穏なりしとの絮説を費さしむることなかれ。
因て爰に論告して以て将来の鑑戒に供すといふ。
●暴風雨の豫防 坪川 辰雄
十月七日駿州附近より武州野州に亘り。猖獗を極めたる暴風は。
曩に惨状を逞ふせし。四国及ひ鹿児島地方の暴風に引続き。近
年稀有の災害を生せり。今回の暴風雨は僅々一時間にして。或
は激浪襲来の為め家屋を流し。或は濁水氾濫の為め作物を害し。
或は汽車転覆の為め。我親愛なる同胞をして。一朝無惨の死を
遂けしめ。酸鼻に堪へざる重傷を負はしめたり。其罹災の惨状
は事実を知るに随ひ。いよ〳〵惨にして殆んど聞くに忍びす。
豈に暴風雨襲来は恐れさる可けんや。
夫れ後者の如きは天災とは云へ。当局者の不注意無きにしもあ
らす。其は他事ならず。橋梁に欄柵の設けなきは一問題なるも。
また予め特別警報の発せらるゝに際し。注意させりし一事なり。
今回の低気圧襲来も。前日来既に中央気象台より風雨の警戒あ
り。就中特別暴風雨の警報は。同日午前八時に発電せられたり。
今同台より発せられたる警報を左に記さむ。
日時 警戒 《割書:低気圧ノ|位置》 低気圧ノ度 記事 進行方向 警戒区域
《割書:十月四日|午後三時三十分》 《割書:海上不穏ノ|虞アリ沿海ヲ警戒ス》 那覇近傍 七百五十五粍 《割書:晴雨計大ヒニ|降ル最低気圧所在地近傍》 北東 《割書:一区東部|及二、三区》
《割書:同五日午|前八時十分》 同上 那覇 七百五十粍 同上 同上 四区
《割書:同日午後|三時五十五分》 同上 同上 七百四十七粍 同上 同上 五乃至七区
《割書:同六日午|後三時四十分》 《割書:風雨ノ虞ア|リ海陸ヲ警戒ス》 大島近傍 七百四十五粍 同上 同上 《割書:一区東部|二、三区》
《割書:同七日午|前〇時五十分》 《割書:風雨ノ虞ア|リ海陸ヲ警戒ス》 同上 同上 同上 同上 《割書:四区及五|六区ノ南部》
《割書:同日午前|八時》 同上 四国沖 七百三十八粍 大雨紀伊半島 同上 《割書:六区北部|七区》
《割書:同日午前|八時》 《割書:暴風雨ノ虞|アリ海陸ヲ警戒ス》 同上 同上 同上 同上 四、五区
左表の如く最初低気圧の大平洋中に在るときは。沿海を警戒し。
其陸地に接近するに随ひ。海陸をも警戒せられたり。元来暴風
警報なるものは。二種ありて之を沿海警報及海陸警戒とす。其
沿海警報は主として海上営業者に対するものにして。此また分
明治三十二年十月七日午後三時ニ於ケル
暴風進行之図
凡例
暴風進路
颶風
烈風
強風
同圧線 数字ハ気圧 粍
暴風ノ通過セシ時刻