翻刻
【右丁】
飼(か)ふといへども元(もと)より不案内(ふあんない)の事なれば東国(とうごく)より一書(いつしよ)を求(もと)め是を見るに其(その)
書(しよ)に云(いふ)むかし関東(くはんとう)にて或人(あるひと)蚕の飼方(かひかた)をためし見むと春(はる)の頃(ころ)種(たね)三 枚(まい)を同日(どうじつ)に
出(いだ)し壱 枚(まい)は家(いへ)の二階(にかい)温(あたゝか)なる所にて飼(か)ひ壱 枚(まい)は少し暖(あたゝか)なる納戸(なんど)にて
飼(か)ひ今(いま)壱枚は座敷(ざしき)の冷(すゝ)しき所(ところ)にて飼ひ試(こゝろみ)るに二階(にかい)の温(あたゝか)なる所にて養(やしな)ひ
し蚕は至(いたつ)て見事(みごと)に生立(おひたち)跡(あと)の蚕より五六日 早(はや)くなり又 納戸(なんど)にて飼(か)ひし
蚕も程々(ほど〳〵)見事(みごと)に生立(おひたち)跡(あと)の蚕より三四日 早(はや)く成(なり)又 座敷(ざしき)の冷(すゞ)しき所にて
養(やしな)ひし蚕は甚(はなはだ)不揃(ふそろひ)にて日数(ひかず)も先(さき)の蚕よりは七八日も後(おく)れ何(なに)とやらあしき
様に見(み)へしが彼(かの)二階(にかい)の温(あたゝか)なる所にて養育(やうゐく)せし蚕は庭(には)の起(おこり)より病(やまひ)
つき俄(にはか)にあしくなり後(のち)は一向(いつかう)不作(ふさく)せり又 納戸(なんど)にて育(そだて)し蚕も不揃(ふそろひ)と
なり是亦(これまた)すくれず彼(かの)冷(すゞ)しき座敷にて養(やしな)ひし蚕は後程(のちほど)段々 生気(せいき)能(よく)
見事(みごと)に揃(そろ)ひ天晴(あつはれ)上作せり然(しかれ)ば蚕は冷(すゞ)しきに増(まし)たる事はなし後世(こうせい)の人 必(かならず)
【左丁】
疑(うたが)ふことなかれと有し故 教(おしへ)のごとく戸(と)を開(ひら)き冷(すゞ)しくして養育(やういく)せしにかひこ
黒子(くろこ)の内に大半(たいはん)消失(きへう)せ又 残(のこり)し蚕とも性(しやう)悪(あし)くなり此事 始(はじめ)てより以来(このかた)一 年(とし)
も上作する事なく過分(くわぶん)の損失(そんしつ)せしなり所詮(しよせん)此所は蚕に応(おう)ぜぬ土地(とち)と
覚ゆれば最早(もはや)蚕業(さんげふ)は相止(あひや)むべしといふ客(きやく)聞(きひ)ていふ誠(まこと)に其範(そののり)をしらねは
かゝる誤(あやまり)の出来しも尤(もつとも)なり其 冷(すゞ)しくといふに子細(しさい)あり元来(ぐはんらい)関東筋(くはんとうすぢ)は蚕(さん)
業(げふ)を勤(つとむ)る事 最(もつとも)久(ひさ)し故に家居(いへゐ)なども種々(しゆ〴〵)に搆(かま)へ窓(まど)の開閉(あけとぢ)自由(じゆう)にして風
出入(でいり)専(もつはら)陽気(やうき)の満(みつ)る様に造(つく)りなすものなりこゝにおひて冷(すゞ)しくして飼(か)ふべし
と書(かき)し物ならん東国(とうごく)にて冷(すゞ)しきといふは袷(あはせ)単物(ひとへもの)にても心よし思へる陽気(やうき)成(なる)
べし寒暖(かんだん)の加減(かげん)は其 家作(やつくり)に有べし斯(かく)とはしらず冷(すゞ)しくさへすればよしと
心得(こゝろえ)し故蚕 黒子(くろご)の中に寒(さむ)さに堪(たへ)ず死(し)するなり残(のこ)りし蚕の性悪(しやうあし)く成りしも
此故ならん都(すべ)て虫のるいは少し温成方(うんなるかた)好(すく)ものにて暖気(だんき)なれば諸虫(しよちう)の生気(せいき)盛(さか)ん