翻刻
後尚議せんと約す九年進貢使を明に発す是よ
り先き久米村の総菅に野国と云ふものあり嘗
て閩州に至り蕃薯の種を得て還る儀間親方真
常其種を乞ひ栽培の法を学ひ之を試むること
数年果して其利あることを知り遍く国民に諭
して栽植せしむ是より凶荒の年といへとも餓
死するものなきに至れり《割書:蕃薯ハ本呂宗島ノ産|ナリ島人其種ヲ外ニ》
《割書:出スヲ禁シタリシカ明国晋安ノ人陳振龍ト云|フ者貿易ヲ業トシ久シク呂宋ニ留ル振龍利ヲ》
《割書:土人ニ□ハシメ其種ヲ得テ還ル時ニ万暦廿二|年ナリ支那蕃薯ヲ植ル之ヲ始トス琉球之ヲ得》
《割書:テ後六七十年薩摩国山川邑ノ農利右エ門ト云|フモノ琉球ニ至リ教茎ヲ得テ皈リ其圃ニ試植》
《割書:ス是ヨリ遠近争ヒ求メ遂ニ国中ニ伝播ス寛永|二年利右エ門死ス郷人其墓ヲ称シテ唐薯殿(からいもとの)ト》
《割書:曰ヒ春秋祭|祝スト云フ》又儀間親方麻平衡家人を使船に附
し閩州に抵り製糖の法を学はしむ家人其法を
得て還る人々伝習し遂に国中に遍し寛永元年
薩藩の老臣藩主の令を伝へて曰今より後官秩
刑罰王宜しく自ら制すへしと三年四月家久東
覲の時琉球の楽童子を携へ江戸に至り楽を奏
す前将軍秀忠将軍家光之を聴き童子に物を賜
ふ是より先き琉球賦税を薩摩に納るに年々負
欠あり島津氏之を免し租税簿を致さしむ五年