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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之16 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之16 - ページ 23

ページ: 23

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【右丁】  《割書:両度(りやうと)の戦(たゝか)ひに軍功(くんこう)あるを以(もつ)て武蔵守(むさしのかみ)に任(にん)せられしか同五年の夏(なつ)任限(にんけん)満(みた)すして重病(ちゆうひやう)にかゝつて卒(そつ)す依(よつ)て公雅(きんまさ)|を此 国(くに)の守(かみ)に任(にん)せらるゝとあり公雅(きんまさ)は常陸大椽国香(ひたちのたいしやうくにか)【注①】の弟(おとゝ)上総介良兼(かつさのすけよしかね)の長男(ちやうなん)にして平将門(たいらのまさかと)を諌(いさめ)て切腹(せつふく)あ》  《割書:りし六郎公連(ろくらうきんつら)|の兄(あに)なり》当寺(たうし)に詣(もうて)当国(たうこく)の大守(たいしゆ)たらむ事(こと)を祈求(ききう)すいくはくならすして辻任(せんにん)【注②】し  此国(このくに)の守(かみ)となりけれは霊験(れいけん)の空(むなし)からさるをあふき奉(たてまつ)り本堂(ほんたう)をよひ宝塔(はうたふ)鐘楼(しゆろう)  楼門(ろうもん)経蔵(きやうさう)法華(ほつけ)常行(しやうきやう)六所(ろくしよ)の社壇(しやたん)《割書:六所(ろくしよ)の社壇(しやたん)|いまた考(かんか)へす》を造立(さうりふ)し田園(てんえむ)数百町(すひやくちやう)を附(ふ)して長(なか)く龍(りう)  華(け)の暁(あかつき)を期(こ)せしむ《割書:又 長久(ちやうきう)二年辛巳十二月廿二日 大地(たいち)震動(しんとう)して仏閣(ふつかく)顛倒(てんたう)|せり寂円阿闍梨(しやくゑんあしやり)永承(えいしやう)六年に造営(さうえい)す》遥(はるか)に後(のち)白河院(しらかはのゐん)承暦(しやうりやく)  三年己未十二月四日 堂塔(たうたふ)回禄(くわいろく)す其時(そのとき)本尊(ほんそん)火中(くはちゆう)を出(いて)て坤(ひつしさる)の榎(えのき)の梢(こすゑ)にうつり  給ふ承徳(しやふとく)二年戊寅四月 藤原成実(ふちはらのしけみつ)四箇年の間(あひた)当国(たうこく)を拝任(はいにん)し猶(なを)重任(ちやうにん)の望(のそみ)  ありて祈願(きくわん)し霊験(れいけん)あり依(よつて)代々(たい〳〵)罕籠(かんろう)の田畑(たはた)を尋(たつね)て元(もと)の如(こと)く皆(みな)施入(せにふ)し奉(たてまつ)  る《割書:按(あんする)に大系図(おほけいつ)に源成実(みなもとのしけみつ)と云し人 武蔵介(むさしのすけ)に|なりたる事ありこゝに藤原(ふちはら)とあるは誤(あやまり)なるへし》  其後 左馬頭源義朝(さまのかみみなもとのよしとも)当寺(たうし)へ参詣(さんけい)ありて  堂塔(たうたふ)を修営(しゆえい)し彼(かの)坤(ひつしさる)の榎(えのき)を以(もつて)新(あらた)に観音(くわんおむ)の像(さう)を彫刻(てうこく)して納(おさめ)らる《割書:其 像(さう)今 内陣(ないちん)|に安(あん)す台座(たいさ)に》  《割書:奉行(ふきやう)鎌田兵衛政清(かまたひやうゑまさきよ)と書付(かきつけ)てあり坂東順礼記(はんとうしゆんれいき)に康治(かうち)年中 義朝(よしとも)当寺(たうし)観音(くわんおむ)へ詣(まうつ)るとありまた花川(はなかは)|戸(と)六地蔵(ろくちさう)の石灯籠(いしとうろう)の銘(めい)に久安(きうあん)二年丙寅とありて鎌田兵衛(かまたひやうゑ)の建立(こんりふ)なりといへり依(よつ)て按(あんす)るに康治(かうち)より久安(きうあん)》  《割書:まてわつかに五年の間(あいた)なれはいつれも政清(まさきよ)命(めい)をうけて|普請(ふしん)の事をつ かさとりしころの事(こと)なるへし》又 仁安(にんあん)三年戊子 用舜法印(ようしゆんほふゐん)大衆(たいしゆ)に同心(とうしん)  して仏閣(ふつかく)を修営(しゆえい)す治承(ちしやう)四年庚子十月十七日《割書:縁起(えんき)に八月十七日とあるは誤(あやまり)なり十七日は北(ほう)|条(てう)を初(はしめ)宗徒(むねと)の人々 八牧判官兼隆(やまきのはんくわんかねたか)か館(たち)に》 【左丁】  《割書:むかふよし源平盛衰記(けんへいせいすいき)をよひ平家物語(へいけものかたり)等(とう)の書(ふみ)に出(いて)たり石橋山(いしはしやま)の戦(たゝか)ひも同廿日の事にしていまた安房(あはの)|国(くに)へもわたらさる先(さき)なれは頼朝(よりとも)当寺(たうし)へ参詣(さんけい)あるへきにあらす又 盛衰記(せいすいき)に治承(ちしやう)四年九月十一日 武衛(ふゑい)武蔵(むさし)下総(しもつふさ)》  《割書:の境(さかひ)なる松戸(まつと)の庄(しやう)市川(いちかは)に着(つき)たまふと東鑑(あつまかゝみ)には治承(ちしやう)四年十月二日 武衛(ふゑい)太井(ふとゐ)|隅田(すみた)の両河(りやうか)を渡(わた)らるゝとあれは八月十七日とするはおほひなる誤(あやまり)なり》右兵衛佐源頼朝(うひやうゑすけみなもとのよりとも)参詣(さんけい)あり  て田園(てんゑむ)若干(そくはく)を寄附(きふ)せらる是(これ)平家追罰(へいけついはつ)の祈願(きくわん)に依(よつ)てなり承久(しやうきう)三年辛巳  には禅尼(せんに)政子(まさこ)二品(にほん)及(をよひ)相州(さうしう)武州(ふしう)両刺史(りやうしゝ)敬信(けいしん)し願書(くわんしよ)を棒(さゝ)【注③】け白檀(ひやくたん)の大悲(たいひ)の  像(さう)一躯(いつく)と白色(しろいろ)の綾羅(りようら)の帳(とはり)一なかれ信濃布(しなのぬの)千端(せんたん)を寄附(きふ)ありまた伏見院(ふしみのゐんの)  御宇(きよう)正応(しやうおう)二年己丑十月廿一日大輔 聖(ひしり)といへる沙門(しやもん)其頃(そのころ)堂宇(たうう)の破壊(はゑ)を歎(なけき)十(しつ)  方(はう)に勧進(くはんしん)して正安(しやうあん)二年庚子三月十八日 修営(しゆえい)落成(らくせい)す其後 建武(けんむ)年中 将軍(しやうくん)  尊氏(たかうち)鎮西(ちんせい)発向(はつかう)の折(おり)から夢想(むそう)に依(よつ)て当寺(たうし)観音(くわんおん)へ願書(くわんしよ)をこめられ同 観応(くはんおう)  三年壬辰《割書:今年 文和(ふんわ)と改元(かいけん)あり|南朝(なんてう)の正平(しやうへい)七年なり》閏二月廿日《割書:縁起(えんき)に三月廿日と|あるは誤(あやまり)なり》武蔵野合戦(むさしのかつせん)にも兼(かね)て勝(しよう)  利(り)あらん事を祈願(きくわん)ありて合戦(かつせん)の後(のち)美田(ひてん)を寄(よせ)らる《割書:永和(やうわ)四年戊午十二月十三日 伽藍(からん)回禄(くわいろく)|すといへとも本尊(ほんそん)は恙(つゝか)なしこゝに》  《割書:至(いたつ)て回禄(くわいろく)九度(こゝのたひ)におよへり其後 嘉慶(かけい)元年丁卯 修行(しゆきやう)の聖(ひしり)|定済(ちやうさい)なる者(もの)勧進(くわんしん)の功(こう)を募(つの)り応永(おうえい)にいたり建立(こんりふ)成就(しやうしゆ)せり》夫(それ)より後(のち)天文(てんふん)四年乙未八月十八日 炎(えん)  上(しやう)す其 頃(ころ)相州(さうしう)小田原(をたはら)の城主(しやうしゆ)北条氏綱(ほうてううちつな)当国(たうこく)を領(りやう)しけれは破壊(はゑ)の諸堂(しよたう)再(さい)  興(こう)ありて大伽藍(たいからん)とし《割書:天文(てんふん)八年己亥五月十八日 当寺(たうし)奉加帳(ほうかちやう)に島津長徳軒(しまつちやうとくけん)大道寺盛(たいたうしもり)|冨(とみ)松田盛秀(まつたもりひて)等(とう)の名(な)を注(ちう)し加(くは)ふ是(これ)本文(ほんもん)の意(こゝろ)に合(かつ)せり又 知足軒(ちそくけん)》 【注① 「椽」は「掾」の誤】 【注② 「辻」は「迁(遷の異体字)の誤ヵ】 【注③ 「棒」は「捧」の誤】