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コレクション: STAGE5

安政見聞録 下 - 翻刻

安政見聞録 下 - ページ 5

ページ: 5

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この死骸(なきがら)を。火(ひ)に燔(やか)れては夫(をつと)の恥(はぢ)なり。今一個人(いまひとりひと)のあらば。擔(にな)ひてこの 場(ば)をたち去(さり)てん。と四辺(あたり)を見れどこの擾(さわ)ぎにて。誰(たれ)を憑(たの)まんやうも なし。こゝに於(おい)てその婦(つま)は背負(せおひ)し葛籠(つゞら)を其処(そこ)へ下(おろ)し。蓋(ふた)をあけて中(なか) なる衣類(いるゐ)。残(のこ)なく揪出(とりだ)し捐(すて)。夫(をつと)の死 骸(がい)を引起(ひきおこ)し力(ちから)を極(きは)め抱(いだ)きあ げて。かの葛籠(つゞら)の中(なか)におしいれ。蓋(ふた)をなし鎖(ぢやう)を鎖(さし)て。また背(そひら)に負(おひ)けるが。 始(はじ)めには似(に)ずいと重(おも)くて。他(ほか)に物(もの)を持(もつ)べきやうなし。残(のこ)り惜(を)しとは思(おも)へ ども。その衣(きぬ)ともを捨(すて)おきて。まづ火(ひ)は脱(のか)れたりけれど。今宵(こよい)の騒(さわ)ぎ何(いづ) 方(く)とて。穏(をだやか)なる方(かた)もあらじ。任意親族知音(よしやしんぞくちいん)の方へゆきたりとも常(つね)の ごとく。野辺送(のべおく)りのなるべきならねば。浅草観音(あさくさくわんおん)の裏手(うらて)には。豫(かね)て知る 寺(てら)もあり。まづ彼処(かしこ)へ負(おひ)ゆかんと心細(こゝろほそ)くもたゞ一個(ひとり)。浅草 川(かは)の端(はた)に出(いで)。夫(それ) より漸々(やう〳〵)と吾妻橋(あづまばし)をわたらんとせしときに。歳(とし)二十四五なる男跡(をとこあと)に なり先(さき)になり。来(き)かゝりしが声(こゑ)をかけ。女の身(み)にて大きやかなる。葛籠(つゞら)を背(せ) 負(おひ)て苦(くる)しからん。己(おのれ)は山手(やまて)の者(もの)なるが。この所(ところ)に親族(しんぞく)ありて。今安否(いまあんひ)を訪(とひ)て 帰(かへ)る。己(おのれ)の方(かた)は地震(ぢしん)も緩(ゆる)く。家(いへ)の崩(くづ)るゝまでもなければ。かく遠方(ゑんはう)へも来(きたり) しなり。されば未聞不見(みずしらず)の人(ひと)なれど。難義(なんぎ)を見るに忍(しの)びねば。われ其葛(そのつゞ) 籠(ら)を背負(せほい)て進(しん)ぜん。おん身先(みさき)に立(たち)て往(ゆく)さきの。案内(あんない)をせよといふ。女(をんな)は是(これ) を顧(かへ)り見るに。その詞(ことば)こそ優(やさ)しけれ。骨逞(ほねたく)ましく面魂(つらたましひ)。一癖(ひとくせ)ありと心(こゝろ)に推(すゐ) し。そのお志(こゝろざし)は嬉(うれ)しけれど。この葛籠(つゞら)には身(み)にも換(かへ)ざる。大事(だいじ)の物(もの)の入(いり)たれ ば。餘所人(よそびと)には任(まか)せがたし。といひ捨(すて)て衝々(つゝ)とゆく。彼(かの)男は猶足(なほあし)を早(はや)め。吾(われ)を 怪(あや)しき者(もの)と推(すゐ)して。斯(かく)のごとく拒(こば)むにか。若然(もししか)らばこの裹(つゝ)み。これもまたわが 身(み)には。大切(たいせつ)のものながら。おん身(み)が方(かた)へ質(しち)とすべし。心(こゝろ)を安(やす)んじてその葛籠(つゞら) を。われに負(おは)せ候べし。かくいふも箇様(かやう)のときに。聊(いさゝか)なりとも善根(ぜんこん)を。なさん