翻刻
【右丁】
八月十九日従四位下にのほり同八年七月廿九日に卒《割書:ス》
廿八歳な(子)【左に◦】なくして家絶
右近大夫源輝興朝臣《割書:松平と|称す》輝政の六男母忠継に同し
元和元年六月播磨国佐用郡を賜ふ《割書:いかほとゝいふ|事未詳》
寛永八年同国赤穂に移る《割書:或云九万四千七百石余|或云二万五千石未詳》同十一年
七月従四位下にのほり正保二年三月十五日 忽ちに
心狂しけれは 備前国に 流されて光政に預られて
家絶《割書:同き四年 五月十七日|三十七才にて死すといふ》
備中守源長吉《割書:此流池田|と称す》十二歳の時秀吉の養子となりて
羽柴藤三郎と名のる《割書:そのゝち治兵衛|と申せし歟》長湫の戦に疵かうふり
【左丁】
天正十三年に叙爵し筑紫小田原名古屋等の陣に随ひ
慶長五年の秋関ヶ原の戦に舎兄輝政と共に関東
の御方して爰かしこの戦に功ありしかは其勧賞として
此年因幡国鳥取の城を賜《割書:六万石一説|六万五千石》同十九年九月
廿四日年四十五歳にて卒す子息備中守長幸初め
慶長元年とし九才にて徳川殿に見参す中納言殿
より御刀を賜《割書:新藤|五》父卒して家をつく此としの冬
大坂の兵起りしに 馳向ひ明る夏の戦には武蔵守
利隆朝臣に属して首三十を献る 元和三年備中国
松山の城に移る《割書:六万五|千石》寛永九年四月 七日卒す 四十五