翻刻
りしことありしにやあらん、しからざれば大業(だいげふ)の初(はしめ)、吾(わが)
邦(くに)の人(ひと)の、隋人(ずゐひと)に答(こた)へし詞(ことば)にかなひがたし、かゝれば琉(りう)
球(きう)の名(な)は、史(し)にしるさずといへども、推古(すゐこ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)よ
り、はやく已(すで)に彼国(かのくに)より朝献(てうけん)ありしこと知(し)るべし、
按(あん)ずるに、推古(すゐこ)天皇(てんわう)二十四年(にじふよねん)掖玖(やく)の人(ひと)来(きた)るよし見
えたり、《割書:史に掖玖(やく)、また邪久(やく)、益久(やく)、夜句(やく)、益救(やく)なども|かけるは、文字(もじ)の異(こと)なるまでにて同(おな)じことなり、》南島(なんたう)
の朝献(てうけん)は、この時(とき)より始(はじま)れるならん、この掖玖(やく)といへ
るは、即(すなはち)琉球国(りうきうこく)のことなりといへり、又(また)天武(てんむ)天皇(てんわう)十(じふ)
年(ねん)、多祢島(たねじま)へ使人(つかひ)をつかはして、その国(くに)の図(づ)を貢(みつが)し
むることあり、おもふにこの多祢島(たねじま)といふも、亦(また)琉球(りうきう)
のことなり、南海(なんかい)の島々(しま〴〵)の名(な)、いまだ詳(つまびらか)ならざるに
よりて、琉球(りうきう)へ通(かよ)ふ船路(ふなぢ)この多祢島(たねじま)を経(へ)て、往来(わうらい)
するをもつて、多祢島(たねじま)とも呼(よ)べるならん、《割書:この多祢|島といへ》
《割書:るは今云(いまいふ)|種(たね)が島(しま)なり》後(のち)元明(げんみやう)天皇(てんわう)和銅(わどう)七年(しちねん)、南海(なんかい)の諸島(しよたう)みな内(だい)
附(ふ)すと見えたり、《割書:南島|志》
琉球使(りうきうし)来(きた)れる
琉球(りうきう)は掖玖(やく)の島人(しまびと)とともに、推古(すゐてん)【「こ」とあるところ。】天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)より
来(きた)りけんが、はやく朝貢(てうこう)怠(おこた)りしなるべし、かくてその