翻刻
ころ天気(てんき)晴(は)れて海上(かいしやう)風(かせ)おだやかなる時(とき)、東(ひがし)の方(かた)を見(み)
渡(わた)すに、かすかに煙霧(えんむ)の如(ごと)くに見ゆるの気(き)あり、その
遠(とほ)きこと幾千里(いくせんり)といふことをはかるべからずといへるによ
りて、同(おなじ)き三年(さんねん)、帝(てい)羽(う)騎尉(きゐ)朱寛(しゆくわん)といふものをして、海(かい)
外(ぐわい)の異俗(いぞく)を訪(と)ひ尋(たづ)ねしむるにあたりて、何蛮(かばん)かねて
いへることのあれば、倶(とも)につれ往(ゆ)きけるに、遂(つひ)に琉球国(りうきうこく)
に至(いた)りけれども、言語(ことば)通(つう)ぜす、よつて一人(ひとり)を掠(かす)めて還(かへ)
れり、その翌年(よくねん)再(ふたゝび)朱寛(しゆくわん)を琉球(りうきう)につかはして、慰撫(ゐぶ)せ
しむといへども従(したが)はざれば、朱寛(しゆくわん)かの国(くに)に往(ゆき)たるしるし
に、布甲(ふかふ)【左注「よろひ」】を取(と)りて還(かへ)れり、その頃(ころ)吾邦(わがくに)の使人(つかひ)、たま〳〵
唐土(もろこし)にありて、彼(かの)布甲(ふかふ)を見ていへるは、これは夷邪久(いやく)
の国人(くにひと)の用(もち)ゆるところの物(もの)といへりとあり、吾邦(わがくに)に
は、これらの事(こと)を記(しる)したるものなしといへども、これ
によりて憶(おも)へば琉球(りうきう)の人(ひと)の、掖玖島(やくじま)の人(ひと)とともに、
吾邦(わかくに)へはやく往来(わうらい)したることゝは知(し)られたり、史(し)を
按(あん)ずるに、推古天皇(すゐこてんわう)二十四年(にじふよねん)に掖玖(やく)の人(ひ)【ママ】来(きた)ると
見えたり、この年(とし)隋(ずゐ)の大業(だいげふ)十二年(じふにねん)にあたれり、これ
より先(さき)に掖玖(やく)の人(ひと)とともに琉球(りうきう)の人(ひと)の、吾邦(わがくに)に来(きた)