翻刻
【右丁】
道三橋(たうさんはし) 細川侯藩邸(ほそかはこうはんてい)の北(きた)の通(とほり)より常盤橋(ときははし)の方(かた)へ渡(わた)る橋(はし)の号(かう)
とす昔(むかし)此橋(このはし)の南(みなみ)に典薬寮(てんやくりやう)の御医官(おんゐくわん)今大路家(いあおほちけ)の弟宅(ていたく)ありし
となり《割書:故(ゆゑ)に此所(このところ)を道三河岸(たうさんかし)といふ延宝図(えんはうのつ)に内河岸(うちかし)とあり慶長(けいちやう)の頃(ころ)は柳町(やなきちやう)と)|云し傾城町(けいせいまち)なりしとなり慶長(けいちやう)十二年の図(つ)に町屋(まちや)とのみ記(しる)してあり》
俗間(そくかん)伝(つたへ)云(いふ)ある時(とき) 大将軍家(たいしやうくんけ)道三(たうさん)をめさる少(すこ)し遅(ちゝ)〻したりけれは
御咎(おんとかめ)ありし時(とき)御堀(おんほり)をめくる故(ゆゑ)に其道(そのみち)遠(とほ)しと申上けれは其後(そのゝち)此(この)
橋(はし)をかけしめ給ふとなり《割書:江戸(えと)名所(めいしよ)はなしに道三河岸(たうさんかし)南北(なんほく)ともに道三(たうさん)をはし|め医術(ゐしゆつ)の面(めん〳〵)〻本道(ほんたう)外科(けくわ)針立衆(はりたてしゆ)まて軒(のき)をならへて》
《割書:住宅(ちゆうたく)はと云〻寛文(くわんふん)江戸(えと)絵図(えつ)に此(この)はしを彦次郎橋(ひこしらうはし)としるしてあり又大導寺友山(たいたうしゆうさん)|翁(をうの)云(いはく)道三河岸(たうさんかし)御入国(こにゆこく)の頃(ころ)材木(さいもく)渡世(とせい)の者(もの)軒(のき)をならへてありしか後年(こうねん)彼地(かのち)武家(ふけ)の》
《割書:やしきとなりける故(ゆゑ)御城(おんしろ)の外(そと)東(ひかし)の方(かた)へ|移(うつ)さるゝ今(いま)の本材木町(ほんさいもくちやう)是(これ)なりと云〻》
銭瓶橋(せにかめはし) 常盤橋(ときははし)と呉服橋(こふくはし)の間(あひた)にあり昔(むかし)初(はしめ)て此橋(このはし)を架(わた)す時(とき)銭(せに)の
入たる瓶(かめ)を堀得(ほりえ)し故(ゆゑ)号(な)とすと一説(いつせつ)に昔(むかし)此所(このところ)にて永楽銭(えいらくせん)の引替(ひきかへ)
ありし故(ゆゑ)に銭替橋(せにかへはし)と唱(とな)へしとなり又/江戸(えと)総鹿子(そうかのこ)に云(いは)く昔(むかし)此地(このち)
にて銭(せに)を売(うる)ことの市(いち)をたて毎日(ひこと)に両替(りやうかへ)せしに後(のち)は銭売(せにうり)多(おほ)くなり
けれは互(たかひ)に渡世(とせい)の為(ため)にもなるましとて仲間(なかま)を定(さた)めける依(よつ)て
【左丁】
其頃(そのころ)銭買(せにかひ)はしと云(いひ)けると云云 《割書:江戸鹿子(えとかのこ)江戸雀(えとすゝめ)等(とう)の冊子(さうし)に銭亀(せにかめ)|橋(はし)に作(つく)るはさらにより所(ところ)なきに似(に)》
《割書:たり寛永(かんえい)十八年印本(いんほん)そゝろもの語(かたり)といへる冊子(さうし)に天正(てんしやう)十九年の夏伊勢与一(なついせのよいち)と|いへる者(もの)銭瓶橋(せにかめはし)の辺(あたり)に洗湯風呂(せんたうふろ)を一つ立る風呂銭(ふろせん)は永楽(えいらく)一(いつ)銭なりとあれは》
《割書:銭瓶橋(せにかめはし)に作(つく)る事も|久(ひさ)しとしるへし》
常盤橋(ときははし) 御本丸(こほんまる)の大手(おほて)より東(ひかし)の方/本町(ほんちやう)への出口(てくち)にして御門(こもん)あり
橋(はし)の東詰(ひかしつめ)北(きた)の方(かた)に御高札(こかうさつ)を建(たて)らる金葉集(きんえふしふ)に色(いろ)かへぬ松(まつ)に
よそへてあつま路(ち)の常盤(ときは)の橋(はし)にかゝる藤波(ふちなみ)といへる古哥(こか)の
意(こころ)を松平(まつたひら)の御称号(こしようかう)にとりましへ御代(みよ)を賀(か)し奉(たてまつ)りての号(かう)なりといへり
《割書:按(あんする)に此橋(このはし)の旧名(きうみやう)を大橋(おほはし)といひ伝(つた)ふるは誤(あやまり)なり慶長(けいちやう)十二年の江戸/絵(ゑ)|図(つ)に今(いま)の御本丸(こほんまる)の下乗(けしやう)橋を大橋(おおはし)としるしてあり同図(おなしつ)に常盤(ときは)橋をは》
《割書:浅草口橋(あさくさくちはし)としるせり依(よつ)て常盤橋(ときははし)の大(おほ)橋にあらさる事をしる|へし》
一石橋(いちこくはし) 日本橋(にほんはし)より二丁斗西(にし)の方(かた)同し川筋(かはすち)にかゝる此橋(このはし)の南北(なんほく)に
後藤氏(ことううち)両家(りやうけ)《割書:金座(きんさ)後藤庄三郎(ことうしやうさふらう)|呉服所(こふくしよ)後藤縫殿助(ことうぬひのすけ)》の宅ある故(ゆゑ)に其(その)昔(むかし)五斗(ことう)〳〵といふ秀(しう)
句(く)にて俗(そく)に一石橋と号(なつ)けしとなり《割書:寛永(くわんえい)の江戸絵図(えどゑつ)には後藤橋(ことうはし)と|あり斗の音(おん)トウなり其頃(そのころ)は五斗(ことう)と》
《割書:云しなる|へし》又/此(この)橋上(きやうしやう)より日本橋(にほんはし)江戸/橋(はし)呉服橋(こふくはし)銭瓶橋(せにかめはし)道三(たうさん)橋/常盤(ときは)
現代語訳
【右丁】
道三橋(どうさんばし) 細川侯の藩邸の北の通りから常盤橋の方へ渡る橋の名前である。昔、この橋の南に典薬寮の御医官である今大路家の弟の屋敷があったからである。《そのため、この場所を道三河岸という。延宝図には内河岸とあり、慶長の頃は柳町と呼ばれた傾城町(遊郭)であったという。慶長十二年の図には町屋とのみ記してある》
民間の伝承によると、ある時、将軍家が道三を召したが少し遅刻したところ、お咎めがあった際に、お堀を回って行くため道のりが遠いと申し上げたところ、その後この橋を架けさせられたという。《江戸名所はなしには、道三河岸の南北ともに道三を始めとして、医術の面々、本道、外科、針立衆まで軒を並べて住居していたという。寛文江戸絵図にはこの橋を彦次郎橋と記してある。また大導寺友山翁によると、道三河岸は御入国の頃、材木商売の者が軒を並べていたが、後年その地が武家屋敷となったため、お城の外の東の方へ移されたのが今の本材木町であるという》
銭瓶橋(ぜにがめばし) 常盤橋と呉服橋の間にある。昔、初めてこの橋を架ける時、銭の入った瓶を掘り当てたためこの名前になったという。一説によると、昔この場所で永楽銭の引き替えがあったため銭替橋と呼んだという。また江戸総鹿子によると、昔この地で銭を売る市を立て、毎日両替をしていたが、後に銭売りが多くなったので、互いの商売のためにもならないとして仲間を定めた。そのため
【左丁】
その頃は銭買橋と言ったという。《江戸鹿子・江戸雀などの冊子に銭亀橋と書くのは全く根拠がないように思われる。寛永十八年刊本「そそろもの語」という冊子に、天正十九年の夏、伊勢与一という者が銭瓶橋の辺りに銭湯を一つ建て、風呂代は永楽一銭なりとあるので、銭瓶橋と書くことも古いことが分かる》
常盤橋(ときわばし) 本丸の大手から東の方、本町への出口で御門がある。橋の東詰の北の方に高札を建てられる。金葉集にある「色変えぬ松によそえて東路の常盤の橋にかかる藤波」という古歌の意を松平の御称号に取り合わせて御代を祝い奉っての名前であるという。
《考察するに、この橋の旧名を大橋というのは間違いである。慶長十二年の江戸絵図には今の本丸の下乗橋を大橋と記してあり、同図では常盤橋を浅草口橋と記している。よって常盤橋が大橋でないことが分かる》
一石橋(いちこくばし) 日本橋から二町ほど西の方、同じ川筋にかかる。この橋の南北に後藤氏両家《金座後藤庄三郎、呉服所後藤縫殿助》の屋敷があるため、その昔「五斗々々」という洒落で俗に一石橋と名付けたという。《寛永の江戸絵図には後藤橋とあり、斗の音はトウである。その頃は五斗と言ったのであろう》また、この橋の上から日本橋、江戸橋、呉服橋、銭瓶橋、道三橋、常盤
英語訳
【Right Page】
Dōsan Bridge This is the name of the bridge that crosses from the north street of the Hosokawa clan's domain residence toward Tokiwa Bridge. Long ago, there was a residence belonging to a younger brother of the Ima-ōji family, who served as a court physician in the Imperial Medical Bureau, south of this bridge. 《Therefore, this place is called Dōsan Riverbank. The Enpō map shows it as Uchi Riverbank, and during the Keichō era it was called Yanagi-chō, which was a pleasure quarter. The Keichō 12 map records it simply as a merchant district》
According to folk tradition, once when the Shogun summoned Dōsan, he arrived slightly late. When reprimanded, he explained that the route was long because he had to go around the moat, whereupon the Shogun had this bridge built. 《According to "Edo Famous Places Stories," both north and south of Dōsan Riverbank were lined with medical practitioners including Dōsan himself, covering internal medicine, surgery, and acupuncturists. The Kanbun Edo map records this bridge as Hikojirō Bridge. Also, according to Elder Daidōji Yūzan, during the early settlement period, Dōsan Riverbank was lined with lumber merchants, but in later years when the area became samurai residences, they were moved east outside the castle to what is now Hon-zaimoku-chō》
Zenikame Bridge This is located between Tokiwa Bridge and Gofuku Bridge. Long ago, when this bridge was first built, a jar containing coins was excavated, hence the name. According to one theory, this place was formerly used for exchanging Eiraku coins, so it was called Zenikae Bridge (Coin Exchange Bridge). Also, according to "Edo Sōkanoko," long ago a coin market was established here with daily money changing, but later as coin dealers increased, they formed a guild to avoid harming each other's business. Therefore
【Left Page】
at that time it was called Zenikai Bridge (Coin Buying Bridge). 《Writing it as Zenikame Bridge in publications like "Edo Kanoko" and "Edo Suzume" seems to have no basis. In "Sosoro Monogatari," a book published in Kan'ei 18, it states that in the summer of Tenshō 19, a man named Ise Yoichi built a bathhouse near Zenikame Bridge with a bathing fee of one Eiraku coin, so writing it as Zenikame Bridge is also historically established》
Tokiwa Bridge This is at the exit from the main castle's Ōte gate eastward toward Hon-chō, where there is a gate. A public notice board is erected on the north side of the bridge's eastern end. The name derives from an ancient poem in the Kin'yōshū: "Like the unchanging color of pines, wisteria waves hang over Tokiwa Bridge on the eastern road," combining the meaning with the Matsudaira family name to celebrate the reign.
《Upon examination, calling this bridge's former name Ōhashi (Great Bridge) is incorrect. The Keichō 12 Edo map shows today's Geshō Bridge at the main castle as Ōhashi, and the same map records Tokiwa Bridge as Asakusa-guchi Bridge. Thus we know that Tokiwa Bridge was not the Great Bridge》
Ichikoku Bridge This spans the same river about two chō west of Nihon Bridge. Because the Gotō family residences 《Kinza Gotō Shōzaburō and Gofukusho Gotō Nuinosuke》 are located north and south of this bridge, it was nicknamed Ichikoku Bridge long ago as a pun on "go-tō, go-tō" (five tō each). 《The Kan'ei Edo map shows it as Gotō Bridge, and the pronunciation of "tō" is "tō." At that time it was probably called "go-tō"》 Also, from atop this bridge one can see Nihon Bridge, Edo Bridge, Gofuku Bridge, Zenikame Bridge, Dōsan Bridge, and Tokiwa