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翻刻
無可消様而有ケルニ丑時ハカリニ雷鳴リテ明ル辰尅迄大雨降リ而
火消雨止ミヌ
《割書:幸平一男》
惟平
嘉禄元年八月十六日補《割書:六十四》但神主重政正祢宜盛久両人同日
死去之間正祢宜ヲ不経而自権祢宜社務職ニ補ス但及二十ケ日不
宣旨ヲ下サレ依天下触穢也寛喜元年五月廿三日死去《割書:六十八》治四年
後之鳥居大路之神主ト号此時嘉禄三年三月五日之夜丑ノ時渡
殿之ソハニ雷落テ火付而焼ル杉三本キラル
同年七月二十日大水出而社司氏人之家流レテ十四人死了
凡正月二日之節養之饗膳者朔日取行ヒシテ惟平之時ニ元日
者計会ナリトテ二日ニナサル今以不替又此時嘉禄三年三月十三日
社務之亭炎上之事アリ印 鎰(監ヵ)ヤキタテマツル先代未聞之珍事
也此惟平之時毎年七月十四日ト十二月廿九日二ケ度渡殿之御前ニテ
人別米二斗宛氏人ニ給フ又小神毎夜不断御燈油者此惟平始
ヲカレテ今流倒トスト云々
《割書:資保男》
資久
寛喜元年五月廿五日超越正祢宜忠長自権祢宜神主ニ補ス《割書:七十》
其故者忠長者貴布祢々宜子息也資久者神主資保子也末社
司之子息トシテ社務補任之人無例由及御沙汰御占ヲ行ナワレテ
任御占之旨忠長ヲ被差置而資久ヲ被補文暦二年後六月八日
死去《割書:七十六》治六年芝之神主ト号此時始而岩本社之御服所司大夫
被付了
《割書:能久二男》
久継
文暦二年後六月九日補《割書:三十六》建長二年六月十二日酉時頓死《割書:五十五》
現代語訳
消しようがない状態であったが、丑の刻(午前2時頃)に雷が鳴り、明ける辰の刻(午前8時頃)まで大雨が降って、火は消え雨は止んだ。
惟平(幸平一男)
嘉禄元年(1225)八月十六日補任(六十四歳)。ただし神主重政と正祢宜盛久の両人が同日に死去したため、正祢宜を経ずに権祢宜から直接社務職に補任された。ただし二十ヶ日に及んでも宣旨が下されなかった。天下に穢れがあったためである。寛喜元年(1229)五月二十三日死去(六十八歳)、治世四年。後の鳥居大路の神主と号す。この時、嘉禄三年(1227)三月五日の夜、丑の時に渡殿の側に雷が落ちて火がつき焼けた。杉三本が切られた。
同年七月二十日、大水が出て社司氏人の家が流され、十四人が死んだ。
およそ正月二日の節養の饗膳は朔日(元日)に執り行っていたが、惟平の時に「元日は忌み日である」として二日に変更した。今でも変わらない。また、この時嘉禄三年三月十三日に社務の亭が炎上する事があり、印璽が焼失した。先代未聞の珍事である。
この惟平の時、毎年七月十四日と十二月二十九日の二回、渡殿の御前にて人別に米二斗ずつを氏人に給付した。また小神に毎夜絶やさぬ御燈油はこの惟平が始めたもので、今も慣例となっている。
資久(資保男)
寛喜元年(1229)五月二十五日、正祢宜忠長を飛び越して権祢宜から神主に補任された(七十歳)。その理由は、忠長は貴布祢祢宜の子息であり、資久は神主資保の子だが、末社司の子息として社務に補任された例がないため御沙汰となり、御占いを行って、占いの結果により忠長を退けて資久を補任したのである。文暦二年後(1236)六月八日死去(七十六歳)、治世六年。芝の神主と号す。この時、初めて岩本社の御服所司大夫が付けられた。
久継(能久二男)
文暦二年後(1236)六月九日補任(三十六歳)。建長二年(1250)六月十二日酉の刻に頓死(五十五歳)。