翻刻
凡(およ)そ天地(てんち)の間(あいだ)に始(はじ)めある者(もの)終(おは)りあらざるはなし
年(とし)に寒暑(かんしょ)あり月(つき)満(みつ)れば虧(か)く人(ひと)に盛衰(せいすい)あり時(とき)移(うつ)り
物(もの)換(かわ)り桑|田(でん)も巨海(きょかい)となるを造物者(ざうぶつしゃ)の然(しら)らしむる
所(ところ)自然(しぜん)の理(ことわり)なるべし爰(こゝ)に相州(さうしう)箱根(はこね)の山中(さんちう)湯井(ゆせい)尤(もつと)
も多(おほ)しと雖(いへ)ども就中(なかんづく)底倉(そこくら)の石風呂(いしふろ)と云(いへ)るは元亀(げんき)
天正(てんしょう)の頃(ころ)より湯宿(ゆやど)何某(なにがし)が後庭(こうてい)に風呂(ふろ)ありて其(その)懸(かヽ)り
たるや高(たか)さ三丈(じょう)許(ばか)りの大岩(おほいわ)屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如(ごと)く
其(その)裾根(すそね)平(たひら)かにして廣(ひろ)く打渡(うちわた)したる一|枚(まい)岩(いは)を圓(まろ)ら
かに彫(ほり)て風呂(ふろ)の形(かたち)をなし之を呼(よん)で背戸(せど)の湯(ゆ)と云(いひ)
習(なら)はしたるに天正(てんせう)十八年|豊太閤(ほうたいかう)小田原(おだはら)征伐(せいばつ)の時(とき)
数(す)十萬の大軍(たいぐん)を卒(そつ)し此|箱根(はこね)山に屯(たむろ)せり然(しか)れども
城中塁(じゅうちうるい)を高(たか)くして能(よ)く防戦(ばうせん)す殿下(でんが)の勢(せい)又|大軍(たいぐん)な
れば敢(あへ)て急(きう)に伐(うた)ず留陣(りゅうぢん)持(じ)して相守(あいまも)る事(こと)数月(すげつ)殿下(でんが)
一日|股肱(ここう)の臣(しん)を率(ひい)て此|石風呂(いしふろ)に浴(よく)し給(たま)ふにより
て太閤(たいかう)石風呂(いしぶろ)の名(な)あり而(しから)してより此湯(このゆ)の功績(いさほし)も
弥高(いやたか)く神(かみ)は人の敬(うやま)ふによりて威(ゐ)を増(ま)すの諺言(ことわざ)に
や夫(それ)より代々(よ〱)名湯(めいたう)の聞(きこ)え高(たか)かりしに後(のち)百年|餘(よ)の
星霜(せいさう)を経(へ)て何時(いつ)の頃(ころ)にや関東(かんとう)の地(ち)大いに震(ふる)ひて此(この)
地(ち)も巌硎?(がんけい)の溪(たに)を埋(うづ)め此時(このとき)彼(かの)石風呂(いしふろ)も山壑(さんけい)陥入(をちいり)て【手偏に刑は字無し。】
跡(あと)なく人家(じんか)住居(すまゐ)を替(かへ)て石風呂(いしふろ)ある所(ところ)よりは遥(はる)か【文意は硎で合ってるかな】