翻刻
ざる『べし』と恐(おそ)れて語(かた)る。然るにその頃外(ころほか)へ出(いで)しに。鄙人(いなかうど)のごとき老媼(おうな)ども。三
四|個集(にんあつま)りて。このことを語り居(を)るに。一人の老媼がいふやう。翌(あす)大地|震(しん)といふこと
は。何人がいひ出たる。誠(まこと)しからずといひければ。今|一個(ひとり)の老媼|答(こた)へて。其(そ)は一天文(あるてんもん)に
精(くは)しき人の。いひ出たることゝなん。油断(ゆだん)すべきにあらずといへば。また其|老媼冷(おうなあざ)
笑ひ。よしや天文に精(くわ)しとも。何(なに)をもてこれを知らん。倘誠(もしまこと)に識(しる)となら。奚為(なんぞ)
其最初(そのさいしよ)のとき。そのことをいはずして。多くの人を過(あやまた)せし。取にたらざること也。とこ
れを詰(なじ)りて止(やみ)にけり。余傍(よかたはら)にこれを聞。この老媼(おうな)無智|蒙昧(もうまい)の。鄙人(いなかうど)と見え
ながら。彼士(かのし)人に競(くら)ぶれば。識量(しきりやう)大に高(たか)かりけり。と微笑(びしやう)して去しことあり。
然(さ)れば人は一|言半句(ごんはんく)の。ことによりて識量(しきりやう)をも。大かた察(さつ)せらるゝもの也。余が
先年著(せんねんあらは)したる。虎(とら)と驢馬(ろば)とが説(せつ)のごとき。よく思ひ合(あは)すべし
按るにこれに限(かぎ)らず。或(ある)ひは大雷或(たいらいある)ひは大火(たいくわ)。すべて人の恐懼(きようく)《?:する》
時にあたつてまた何時幾日(いついくか)。また大雷(たいらい)大火あらん。これ神の託宣(たくせん)。
亦某(またわれ)の社(やしろ)の巫覡(みげき)が卜占(うらなひ)し所也など。囂〻(ぎやう〴〵)しく詈(のゝし)れど。その験(しるし)
ありしことなし。然るに是|等(ら)の妄言(まうげん)を。信(しん)ずる人強(ひとしひ)ていはく。この託宣ある
により。何方(いづく)の名僧(めいそう)これを祈(いの)りて。天雷を遠(とほ)ざけたり。また火災(くわさい)は
人〻の。心を著(つけ)て護(まも)りしゆゑに。この難(なん)を脱(のが)れたり。といひもてはやす
人も多(おほ)し。是|等(ら)の人に争(あらそ)ひて。口舌(こうぜつ)を費(つひや)すは。畢竟無益(ひつきやうむえき)の所為(わざ)
ながら。試(こゝろ)みにこれをいはゞ。雷(らい)は陰陽(いんやう)の撃(げき)する処。祈るとも何(なん)ぞ
避(さく)べき。但菅神(たゞしかんしん)天雷となりて。京師(みやこ)に轟(とゞろ)かんとなせし前(さき)。叡山(えいざん)
に至(いた)り法性房に。よしや勅(ちよく)ありとも祈(いの)り給ふな。と尊意答(そんいこた)へて
率土(そつと)の濱(ひん)。王臣(わうしん)にあらざるなし。勅命下(ちよくめいくだ)らば争(いかで)かは。祈(いの)らざること
を得(え)んといへば。菅神怒(かんしんいか)りて其処(そこ)にありし。柘榴(ざくろ)を取て口に含(ふくみ)。