翻刻
といひて。地脈の狂(くる)ひしに心は著(つか)ず。然(しか)るにそれより四五日を過(すぎ)て。かの
大震(たいしん)ありしなり。其後(そのゝち)諸方の風説(ふうぜつ)をきくに。あるひは井の水|常(つね)より
は。邇(ちか)きこと半(なかば)に過(す)ぐといひ。また遠(とほ)きこと倍(ばい)すといふ。こゝを以(もつ)てこれを思
ふに。地脈(ちみやく)くるひて水道の。差(たが)ひぬること疑(うたが)ひなし。されば福田屋の庭中(ていちう)
に。暴(にはか)に清泉(せいせん)の湧出(わきいで)しも。當(まさ)に地|震(しん)の前兆(ぜんてう)なるべし。余近曽其(よちかごろその)水
を見しに。青く濁(にご)りて苔(こけ)を生(しやう)じ。なか〳〵に飲(のむ)に堪(たへ)ず。是よりまた数月(すげつ)
を経(へ)ば。いかになるらん。知(し)るべからず
因にいふこの時にあたり。安房|国(くに)の海濱潮干(かいひんうしほひ)ること。常に競(くらぶ)れば
三倍(さんばい)せり。故(ゆゑ)に汀に遊ぶ小|児等(にら)。歓(よろこ)びてその干潟(ひかた)にゆき。砂を穿(うが)
ちて貝(かひ)を拾(ひら)ふ。適(たま〳〵)ひき残(のこ)りたる潮(うしほ)の中(うち)に。鯒鰈(こちかれい)など躍(をど)りてあ
《?:れば》。これをとらんと若(わか)もの等。みなこの干潟におりたちツヽ。魚を捕(とり)
《?:余念(よねん)》なし。然(しか)るに一老人(あるらうじん)こゝに来り。僉頓〻(みなとく〳〵)山に登(のぼ)《?:れ》よ。《?:さなく》は
命(いのち)を失(うし)なはん。と声(こゑ)を限(かぎ)りに呼(よ)びければ。其故(そのゆゑ)は知らざれど。老
人の呼(よ)ぶまに〳〵。みなうち連(つれ)て山(やま)へ登(のぼ)り。いかなれば斯遽(かくあはたゞし)く。我〻(われ〳〵)
を呼(よ)びしと問(と)ふ。老人|回答(いらへ)てさればとよ。己若(おのれわか)きときこの岸(きし)の。潮(うしほ)
大(おほい)に干(ひ)たることあり。思ふに今日(けふ)の容(さま)に似(に)たり。常(つね)に稀(まれ)なることな
れば。みな歓(よろこ)びて干潟(ひかた)に出(いで)。貝(かひ)を拾(ひら)ひ魚(うを)を捕(とり)。大(おほい)に興(きよう)を催(もよ)ほし
ける時|潮暴(うしほにはか)に逆巻来(さかまききた)り。干潟(ひかた)にありしもの一人として。一命(いちめい)の全(まつた)
きのみか。その體(から)をさへ遺(のこ)せしものなし。これ所謂津浪(いはゆるつなみ)なり。此
津浪来(つなみこ)んとするとき。潮十分沖(うしほじふぶんおき)へひき。その来(く)るときは猛烈(まうれつ)に
て。これを避(さく)るにいとまなし。危(あや)ふし〳〵とまうしけるが。その詞(こと)ばも
まだ終(をは)らぬに。澳(おき)のかた真黒(まくろ)になり。幾十丈(いくじふぢやう)とも量(はか)りがたく。小