翻刻
蚊(か)などの。鳴(な)くごとき声(こゆ)きこゆ。思ふに人の《ルビ:㗲|わめ》くならん。かくて神田橋(かんだばし)の此(こ)
方(なた)に到(いた)り。門人に出会(であひ)て馬(うま)を借(か)る。夫より八代洲川(やよすがし)岸の殿(でん)に詣(まう)づ云云。
と記(しる)されたるのみ。当下(そのとき)諸方(しよはう)より火なンどの。起(おこ)りしといふことも見えず。凡(およそ)
大震(たいしん)あつて家(いへ)崩(くづる)れば。必(かならず)火災(くわさい)発(おこ)ること。都鄙(とひ)ともにみな然(しか)り。されば
この時も所〻(しよ〳〵)よりして。失火(しつくわ)ありしものならん。白石(はくせき)先生(せんせい)その頃(ころ)は湯島(ゆしま)
天神下(てんじんした)に居給ふよし。さて大地(だいち)震(ふる)ひ出し。屋舎(おくや)揺(ゆる)ること譬(たと)ふれば。猪牙舟(ちょきふね)
に在(あ)るがごとし。と然(しか)れども家を出ず。小壁(こかべ)の崩(くづ)れ落(おつ)るに及び。みな庭(には)に
出(いで)たちたり。小壁(こかべ)崩(くづ)れ落(おち)ざる以前(いぜん)。若(もし)狼狽(うろたへ)て馳(かけ)出(いづ)れば。瓦(かはら)その他(ほか)の物落(ものおち)
て。却(かへつ)て怪我(けが)をすることありとぞ。冝(うべ)なる哉(かな)這回(このたび)の地震(ぢしん)にも。この類(たぐ)ひ多(おほ)く
あり。本所に住(すめ)る何某(なにがし)なるもの。夫婦(ふうふ)に女子(ぢよし)一人ありて。僕(ぼく)一人を使(つか)ひ
けり。この地震(ぢしん)のとき親子(おやこ)三個(みたり)。みな憩(やす)みしが驚(おどろ)きはね起(お)き。雨戸を
ひらきて出んするに。掛鉄(かけがね)固(かた)く頓(とみ)に開(あか)ず。当下(そのとき)僕(ぼく)も駭(おどろ)き覚(さめ)て。己(おの)が部(へ)
屋(や)口なる開(ひら)き戸(ど)を。おしあけて駈出(かけいで)たるを。女子(ぢよし)は目ばやくこれを見つけ。
一人|其処(そこ)へ馳(かけ)ゆきて。その開戸(ひらきど)より外面(そとも)へ出。隣(となり)の方へ往(ゆか)んとして。土庫(ぬりごめ)の
間(あはひ)を通るに。当下(そのとき)土庫(ぬりごめ)たちまち崩(くづ)れ。かの鉢巻(はちまき)と唱(とな)ふる土の。ばら〳〵
【かの鉢巻と唱ふる土の・・・土塁の鉢巻石垣のことか】
と砕(くだ)け堕(おち)て。女子が頭上(づしやう)を打(うち)にけり。女子は堪(こら)へず其処(そこ)へ伏(ふ)すとき。
土瓦(つちかはら)弥(いや)が上に。落重(おちかさ)なりて声(こゑ)も出さず。その侭(まゝ)其処に死(しゝ)てげり。さて
其土を取除(とりのけ)見るに。女子は両眼(りやうがん)飛出(とびいだ)し。七竅(しちけう)より血(ち)を嘔(はき)て。うち匾(ひらめ)られ
たるさま。見るに気も瞑(く)れ心(こころ)惑(まど)ひ。両親(ふたおや)は狂気(きやうき)の如く。歎(なげ)けども更(さら)に甲(か)
斐(ひ)なし。但|当下(そのとき)両親(ふたおや)は。掛鉄(かけがね)の緊(きび)しくて。戸の開(あき)かぬるに間(ひま)とりて。右左(とろう)
するまに震(しん)は止(やみ)ぬ。こゝに於て恙(つゝが)なく。元よりその家も潰(つぶ)れざるに。女子は
いちはやくかの僕(ぼく)が。出たるを見て郷導(しるべ)を得(え)つゝ。隣(となり)の方へ避(さけ)んとして。却(かへつ)て