翻刻
に出来る嶋(しま)あれば。また沈(しづみ)ぬる国もあるべし。天地の機開(からくり)何事か無(なし)
とせん。これ地震(ぢしん)に拘(かゝ)はらずといへど。縡(こと)の序(ついで)にこゝに附言(ふげん)す
◯地震(ぢしん)によりて片足(かたあし)の肉(にく)を脱(だつ)する條(くだり)
古人のいはく。凡(およ)三軍(さんぐん)に将(しやう)たる者(もの)は。泰山前(たいさんまへ)に崩(くず)るゝとも目(め)瞬(まじろ)がず。【䀢、瞬の異体字】
麋鹿前(びろくまへ)に進(すゝ)むとも。更(さら)に恐懼(きようく)の色(いろ)なくして以(もつ)て軍(ぐん)を指揮(しき)すべし。と
これ他(た)なしその心を動(どう)ずれば胸中昏瞑(きやうちうこんめい)して謀計(はかりごと)の。当(あた)らざるを戒(いま)し
むなり。常人(じやうじん)かくの如くならずといへども。平生(へいぜい)これを心にかけて。物に
惑(まど)はず危急(ききふ)にあたつて。よく計(はか)らふを丈夫といふべし。その心がけなき
ときは魂身(たましいみ)をはなれて前後(ぜんご)を失(うしな)ひ。後悔少(こうくわいすくな)からざる物なり。譬(たと)へば
急火(きふくわ)の時に臨(のぞ)みて。肝要(かんえう)の物を捐(すて)。或(ある)ひは古下駄箒(ふるげたはゝき)の類(たぐ)ひを。身
に副(そへ)て火(ひ)を避(さく)る事あり。これ騒乱(さうらん)に心惑(こゝろまど)ひて。其本末(そのほんまつ)を失(うし)なふなり。
いかに貧窮(ひんきう)の者(もの)なりとも。古下駄(ふるげた)に勝(まさ)る。家財(かざい)なからんや。これを
忘(わす)れて目(め)に觸(ふれ)たる麁物(そぶつ)を先(さき)にすることは。魂(たましひ)こゝにあらざる故(ゆゑ)なり。
されば大学(だいがく)にもこれを教(をし)へて。心焉(こゝろこゝ)にあらざれば。見(み)れども見えず
聴(きけ)ども聞(きこ)えず。食(くら)へどもその味(あぢは)ひを。知(し)らずとは説(とか)れたり。また恐懼(きようく)
する所(ところ)あれば。その正(たゞ)しきを得(え)ずとも見えたり。こゝに深川扇橋(ふかがはあふぎばし)の
ほとりに。幽(かすか)なる活業(なりはひ)して世(よ)を送(おく)るものものありしが。いとかすけき借屋(しやくや)
に居(を)れり。然(しか)るに這回(このたび)の地震(ぢしん)にあひ。駭(おどろ)きて外方(とのかた)へ駈出(かけいで)んとしたる
時(とき)。框(かまち)の上(うへ)に行桁落(ゆきげたお)ち。股(もゝ)のあたりを挟(はさ)まれて。出(いづ)ることを得(え)ず苦(くる)
しみ居(い)たり。折(をり)からその隣家及(りんかおよ)び四辺(あたり)のものみな外方(とのかた)へ。駈出(かけいで)て
囂々(がや〴〵)と安否(あんひ)を問(と)ひ訪(とふ)るゝ所(ところ)に。この男声(をのここゑ)をあげて援(たす)けくれよと
叫(さけ)ぶを聞(きゝ)。みな駈(かけ)よりてこれを見るに。胴(どう)より上(うえ)は外(そと)にあり。たゞ片足(かたあし)