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谷(だに)にいそぎゆきぬ。いてふの前(まへ)はこのごろのつかれにて。乗物(のりもの)のうちに熟(じゆく)
睡(すい)し。身(み)のあやうさも露(つゆ)しらず。屠所(としよ)のあゆみのほどもなく。岩倉谷(いはくらだに)に
ゆきつき。眼平(がんへい)下知(げぢ)して。とある処(ところ)に乗物(のりもの)をすゑさせ。戸(と)をあけていてふ
の前(まへ)をひきいだす。いてふの前(まへ)は此時(このとき)にいたりて。やう〳〵すこしねふりさめ。
目(め)をひらきて。先(まづ)我身(わがみ)をかへりみれば。いましめの縄目(なはめ)あり。四方(よも)をあふぎて
見わたせば。月(つき)の光(ひか)りはあきらかなれども。いづくいるなる所(ところ)をしらず。松(まつ)吹(ふく)風(かせ)は
梢(こずゑ)をならし。谷(たに)の水音(みつおと)耳(みゝ)にひゞきて。ものすさまじくきこゆれば。こはまだ
夢(ゆめ)のうちなるかと。更(さら)にうたがひはれざりけり。眼平(がんへい)むかひ合(あひ)ていひけるは。
いかにいてふの前(まへ)どの。此(この)所(ところ)は名(な)におへる岩倉谷(いはくらだに)といふ所(ところ)也。大殿(おほとの)の厳命(けんめい)に
よりて。唯今(たゞいま)おん首(くひ)を打(うつ)なり。念仏(ねんぶつ)まうしたくおぼさばとく〳〵申されよ
と。情(なさけ)なげにぞ申しける。いてふの前(まへ)これを聞(きゝ)。さては我身(わかみ)も今(いま)かぎりなる
か。捕(とら)へられたるその時(とき)より。覚悟(かくご)のうへの命(いのち)なれば。おどろくべきにあら
ざれども。今般(いまは)のきはに唯(たゞ)一目(ひとめ)。月若(つきわか)を見ざるのみ。此世(このよ)の心(こゝろ)のこりぞかしとて。
さめ〴〵とぞなげかるゝ。たとへ鉄(てつ)もて鋳(ゐ)なしたる人(ひと)。土(つち)もてつりたる的(もの)なり
とも。すこしは哀(あは)れをもよほすべきに。物(もの)のあはれをわきまへざる。夷(えびす)ごゝろの
眼平(がんへい)なれば。なげきを耳(みゝ)にも聞入(きゝいれ)ず。氷(こほり)なす刀(かたな)を抜(ぬき)。左(ひだ)りの方(かた)よりふみこ
みて。已(すで)にかうよと見えたる処(ところ)に。はるかむかふの茂林(もりん)のうちより。噇的(どうと)一声(いつせい)
ひゞきわたりて。たちまち鉄丸(てつぐわん)飛来(とびきた)り。眼平(がんへい)が胸板(むないた)を打(うち)ぬきければ。血(ち)を吐(はき)
ながらさかしまにひるがへり。ふすぼりかへりて死(しゝ)てげり。しもべらは魂(たましい)天外(てんぐわい)に
飛去(とびさり)つゝ。かうべをおさへて逃去(にげさり)ぬ。しばしありて林(はやし)のうちより。忍頭巾(しのびつきん)に面(おもて)
をつゝみ。黒(くろ)き装束(しやうぞく)したる者(もの)。手(て)に火術(くわじゆつ)の具(ぐ)をたづさへて。悠々(ゆう〳〵)とあゆみ
いで。驚(おどろ)き臥(ふし)たるいてふの前(まへ)を引(ひき)おこし。小脇(こわき)にはさみて。いづくともなく走(はせ)ゆきけり。