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殿(との)のおん事(こと)。なつかしく思ひはべるは。おん身(み)ら御夫婦(ごふうふ)妹(いもと)ぞかしといひければ。又平
は目(め)をすりあかめ。きけば聞(きく)ほど不便(ふびん)なり。まづしき我(われ)を見つぐとて。千辛(せんしん)
万苦(ばんく)のそのうちに。たま〳〵少(すこ)しの福(さいはひ)を得(え)て。思ひあふたる殿(との)にめでられ。その
身(み)の出世(しゆつせ)と喜ぶ間(ま)もなく。不慮(ふりよ)の枉死(わうし)をなしたれば。心(こゝろ)の残(のこ)るも理(ことはり)也。せめて
敵(かたき)をたづねいだし。仇(あた)をむくいて修羅(しゆら)の宿恨(しゆくこん)をはらさすべければ。とく〳〵
仏果(ぶつくわ)を得(え)て悪趣(あくしゆ)をまぬかれよとて。念珠(ねんじゆ)すりならし。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)あみだ
仏(ぶつ)と。となふる声(こゑ)も吃謇(ことどもれ)ば。いとゞ哀(あは)れぞまさりける。巫(みこ)又いひけるは。そのおふせ
こそ我身(わがみ)には。読経(どきやう)にまさる功徳(くどく)なれ。此(この)うへのお情(なさけ)には。仇(あた)をむくいてたび
玉へ。情(なさけ)なきはこれまで手向(たむけ)たまはりし飯菜(はんさい)も。みさき烏(からす)にさまたげられ。
妾(わらは)がもとにとゞかねば。飢(うへ)にたへざる餓鬼(がき)の飯(めし)。炎(ほのほ)となりて消失(きへうせ)ぬ。ねがはく
はみさき烏(からす)をよけてたべ。くれ〴〵たのみはべるぞかし。あな名残(なごり)をし語(かた)りたき
こといひたきこと。数(かづ)なくありて尽(つき)ねども。黄泉(よみぢ)の使(つかひ)しげゝれば。はやいとま申す
ぞと。いひおはりて巫(みこ)は目(め)をひらき痺(しびり)を撫(なで)て居(ゐ)たりけり。又平 米銭(こめぜに)をとりて
与(あた)へ。その労(ろう)を謝(しや)しければ。巫(みこ)はこれをうけをさめ。わかれを告(つげ)てまかりいでぬ。
扨(さて)小枝(さえだ)は。今宵(こよひ)の仏(ほとけ)に供(くう)ぜんと高木(たかぎ)へ餅(もち)買(かひ)に立出(たちいづ)れば。阿竜(おりう)はなみだをおし。
ぬぐひ。このひまに香(かう)を盛(もり)て。手向(たむけ)ばやと奥(おく)にいり。又平 独(ひとり)こゝにのこり。手(て)を
こまぬきてぞ居(ゐ)たりける。頃(ころ)しも弥生(やよい)のはじめにて。堅田(かたた)におつる雁金(かりかね)も。
こしぢに帰(かへ)る時(とき)なるに。比良(ひら)の高嶺(たかね)の雪(ゆき)おろし。余寒(よかん)をまして肌(はだ)さむく。
瀬田(せた)にかたふく日(ひ)のかげも。西方浄土(さいほうじやうど)と思ふから。辛崎(からさき)の松風(まつかぜ)も。常楽我(しやうらくが)
浄(じやう)ときこゆめり。粟津(あはづ)の嵐(あらし)を世(よ)の中(なか)の。生者必滅(しやうじやひつめつ)と観(くわん)ずれば。矢早(やば)
瀬(せ)の船(ふね)も人(ひと)の身(み)の会者定離(ゑしやぢやうり)とぞ思はるゝ。石山(いしやま)の月(つき)三井(みゐ)の鐘(かね)。生(しやう)
死長夜(じちやうや)の夢(ゆめ)の世(よ)を。悟(さと)れる人(ひと)か外(と)の方(かた)に。鉦(かね)の音(おと)念仏(ねんぶつ)の声(こゑ)。いとも