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うへに。心(こゝろ)せけば。ものいふことあたはず。唯(だゝ)口(くち)に指(ゆび)さして気(き)をいらつを。傍(かたはら)より
於竜(おりう)見かねて。丹(たん)をときたる皿(さら)と筆(ふで)をとりて与(あた)ふれば。又平これをとり。机(つくえ)の
上(うへ)にものかくを。なむ右衛門 読(よみ)くだせば。なんぢ六 年(ねん)以前(いぜん)。長谷部雲六(はせべのうんろく)と
やらんいふ者(もの)といひ合(あは)せ。佐々木(さゝき)の家宝(かほう)百蟹(ひやくがい)の絵巻物(ゑまきもの)を奪取(うばひとり)。しかのみ
ならず。藤浪(ふぢなみ)を害(がい)して逃去(にげさり)たる大罪人(たいさいにん)。いかでかのがるゝ道(みち)あらん。それがしは則(すなはち)
是(これ)藤浪(ふぢなみ)が兄(あに)湯浅(ゆあさ)又平といふ者(もの)なり。汝(なんぢ)を打(うつ)て妹(いもと)が冥途(めいど)の宿恨(しゆくこん)をはらし
やらんと。日来(ひごろ)心(こゝろ)がけたれども。弗(ふつ)にゆくへしれざれば。むなしく月日(つきひ)をおくりつる
に。今月(こんげつ)今日(こんにち)妹(いもと)が祥月命日(しやうつきめいにち)にめぐりあひしは。因果(いんくわ)のめぐる車(くるま)の輪(わ)。妹(いもと)がみち
びく所(ところ)なるべし。猶予(ゆうよ)せよとは比興(ひきやう)なり。覿面(てきめん)の悪報(あくほう)妹(いもと)の敵(かたき)。のがれぬ所(ところ)ぞ。
はやく勝負(しやうふ)を決(けつ)せよと書(かき)おはり。ふたゝび刀(かたな)をとりなほして。只(たゞ)一打(ひとうち)ときりつく
れば。なむ右衛門しかおぼすはうべなれども。それがしがものがたる子細(しさい)を一(ひと)
通(とほ)りきゝてよとて。なほうけつながしつあしらひけり。かゝる折(おり)しも又平が妻(つま)
小枝(さえだ)。餅(もちひ)をもとめて立(たち)かへり。何事(なにごと)やらんとしばらく門(かど)にたゝずみて。内(うち)の様子(やうす)
をうかゞひけるが。又平どのはやまり玉ふなと。いそがしはく声(こゑ)かけて。走(はし)り入(いり)。夫(をつと)
の手(て)にすがりておしとゞめ。かねておん身(み)にものがたり。いつぞはめぐりあひて
大恩(だいおん)をむくはんと。日来(ひごろ)心(こゝろ)に忘(わす)れざる恩人(おんじん)は。則(すなはち)此(この)おんかたにておはすなり
といふにぞ。又平大におどろき。扨(さて)はしかとさあるかとて。手(て)をとゞめてぞ坐(ざ)し
居(ゐ)たる。なむ右衛門いぶかしく。小枝(さえだ)がかほをつら〳〵見れば。いかさま見おぼへ
ある女なり。小枝(さえだ)はなむ右衛門が前(まへ)に恭(うや〳〵)しく手(て)をつき。さても思ひかけ
ず。ふたゝびおん目(め)にかゝるうれしさよ。妾(わらは)ことは六年 以前(いぜん)。思へばしかも今月(こんげつ)
今夜(こんや)。京(きやう)北山(きたやま)の杉坂(すぎさか)にて。首(くび)縊(くゝり)て死(し)なんとせしを。金(きん)二十 両(りやう)たまはり。危(あやう)き一命(いちめい)
をすくひくだされしその女にて。則(すなはち)これなる又平が妻(つま)小枝(さえだ)と申すものにて候。