← 前のページ
ページ 123 / 192
次のページ →
翻刻
二 字(じ)あるを見れば。これも刃(やいば)にかゝりて亡(うせ)し女ならめ。それがし六年 以前(いぜん)
藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)せしも。同年(どうねん)同月(どうげつ)同日(どうじつ)なり。広(ひろ)き世界(せかい)といひながらよく似(に)たる
こともあるものかな。いかなれば長禄(ちやうろく)二年の今月(こんげつ)今日(こんにち)は。女の刃(やいば)にかゝる日ぞ。
此(この)女子(をなご)もいかなる因果(いんぐわ)にて。剣難(けんなん)に死(し)せしぞと。藤波(ふぢなみ)が事(こと)思ひ合(あは)せて涙(なみだ)を
おとしつゝ。しばらく回向(ゑこう)して居(ゐ)たりけるに。又平が妹(いもと)於竜(おりう)朽木塗盆(くつきぬりぼん)に日野(ひの)
椀(わん)すゑて持(もち)いで。麁抹(そまつ)の斎(とき)をめし玉へといひつゝ。修行者(しゆきやうじや)の顔(かほ)をつら〳〵
打(うち)まもり。そなたは佐々良(さゝら)三八郎にあらずやといひて。おぼえず手(て)に持(もち)たる物(もの)
を。地上(ちしやう)にはたと取(とり)おとす。修行者(しゆきやうじや)いぶかり。さいふそなたは何人(なにびと)ぞ。見忘(みわす)れ
たりといへば。於竜(おりう)泣声(なきこゑ)にて。見忘(みわす)れしとはよくもいはるゝ事(こと)よ。妾(わらは)はそなたに
殺(ころ)されたる。藤浪(ふぢなみ)が妹(いもと)竜(りう)といふものなり。その時(とき)妾(わらは)は十三 才(さい)京都(きやうと)佐々木(さゝき)
の旅館(たびやかた)。お寝間(ねま)に通(かよ)ふ廊架(ほそどの)にて。手燭(てしよく)の光(ひか)りに顔(かほ)見 合(あは)せ。たしかに見とゞけ
たる三八郎。刀(かたな)の□(みね)打(うち)に手燭(てしよく)をはしと打(うち)おとして。逃去(にげさり)たるはおぼへあらん。
折(をり)しも風雨(ふう)はげしくて。庭木(にはき)の花(はな)も風前(ふうぜん)の。灯火(とうくわ)ときえたる姉(あね)の敵(かたき)。覚(かく)
悟(ご)せよとよばゝれば。さきほどより屏風(びやうぶ)のかげに。様子(やうす)をうかゞふ浮世(うきよ)又
平。刀(かたな)を抜(ぬい)てをどり出(いで)。ものをもいはず斬(きり)つくれば。修行者(しゆきやうじや)手(て)ばやく。
あたりにありあふ机(つくえ)をとりて丁(ちやう)とうくれば。皿(さら)にときたる青黄赤白(せいわうしやくびやく)の絵(ゑ)
の具(ぐ)。四方(しほう)にさつと飛散(とびちり)て。秋(あき)の花野(はなのに)に異(こと)ならず。又きりつくるをうけとめ
て。いかにも某(それがし)が実(まこと)の姓名(せいめい)は佐々良(さゝら)三八郎。今(いま)の名(な)は六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門と申す。
藤浪(ふぢなみ)といふ女を殺(ころ)せし事(こと)おぼえあり。さりながら委細(いさい)のゆゑをかたるうち。
しばらく待(まち)玉はれといふを。又平 耳(みゝ)にも聞入(きゝいれ)ず。頭(かうべ)をふりつゝ勢(いきほひ)こみてぞ
きりつけぬ。なむ右衛門 錫杖(しやくじやう)をとりて。うけつながしつ立(たち)まはり。子細(しさい)をいは
ねば。せき玉ふもことわりなり。しばし〳〵ととゞめけり。又平は吃謇(ことともり)なる