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その時(とき)の大恩(だいおん)。骨(ほね)に鏤(ゑり)心(こゝろ)に銘(めい)じて。片時(かたとき)もわすれず。ひとへに命(いのち)の
父母(ふぼ)と存(ぞんじ)。何(なに)とぞ再(ふたゝび)おん目(め)にかゝり。露(つゆ)ばかりも洪恩(こうおん)を報(ほう)じはべらんと思へ
ども。その時(とき)は只(たゞ)おん顔(かほ)を見おぼえたるのみにて。姓名(せいめい)をあかし玉はざれば。
いかなるおん方(かた)ともしらず。たづね申すべきよすがもなければ。むなしくこれ
まで打過(うちすぎ)候といへば。なむ右衛門さてはその時(とき)の婦人(ふじん)にて候か。思ひかけざる
再会(さいくわい)に。恙(つゝが)なき体(てい)を見。て喜(よろこ)びにたへずといふ。又平は此時(このとき)やう〳〵心(こゝろ)おち
つきぬれば。ものいふ事も常(つね)のごとく。なむ右衛門にむかひ。詞(ことば)をあらため
ていひけるは。某(それがし)かねて妻(つま)に金子(きんす)をたまはり。危(あやう)き一命(いちめい)をすくひくだされし
恩人(おんじん)を慕(したひ)つるに。おん身(み)にてあらんとは夢(ゆめ)にもおもはざりき。某(それがし)そのかみ都(みやこ)
北山(きたやま)に住(すみ)しころ。殊外(ことのほか)困窮(こんきう)し過去(すぎさり)し。母親(はゝおや)を養育(よういく)の為(ため)せんすべなく。
先祖(せんぞ)より伝来(でんらい)の。巨勢(こせ)の金岡(かなをか)が画(ゑがき)たる。陸奥(みちのく)武隈(たけくま)の松(まつ)の絵(ゑ)を質入(しちいれ)
せしが。妹(いもと)藤浪(ふぢなみ)その事(こと)を聞(きゝ)て気(き)の毒(どく)に思ひ。うけもどせとて。金(きん)二十 両(りやう)合力(かうりき)し
くれけるゆゑ。その夜(よ)妻(つま)に命(めい)じて絵(ゑ)をうけもどしにつかはしける途中(とちう)にて。盗(ぬす)
人(ひと)に金子(きんす)を奪(うばひ)とられ。妹(いもと)の手前(てまへ)面目(めんぼく)なしとて。杉坂(すぎさか)にて縊死(くびれしな)んとせしを。
おん身 詞(ことば)を尽(つく)し理(り)をのべて。二十 両(りやう)の金(かね)をめぐみたまはり。一命(いちめい)を救(すく)ひ
くだされ。殊(こと)に後日(ごにち)に恩(おん)をきまじとて。姓名(せいめい)を告(つけ)玉はず。此方(このかた)の名(な)をも
聞(きゝ)玉はざるよし。その夜(よ)妻(つま)たゞちにかの絵(ゑ)をうけもどし。家(いへ)に帰(かへ)りて。つぶ
さにものがたり候ゆゑ。世(よ)にはさばかり慈悲深(じひふか)き人(ひと)もあるものかと。感歎(かんたん)
し。今(いま)にいたるまで。夫婦(ふうふ)折(おり)ふしその事(こと)をかたりいだして。感じ思ふ事
たえはべらず。おん身(み)さばかり慈悲深(じひふか)き人(ひと)にてありながら。何(なに)とて妹(いもと)藤(ふぢ)
浪(なみ)を殺(ころ)し。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を奪(うばひ)とるたぐひの。非道(ひだう)をおこなひ玉ひしや。
こゝに於(おい)て思へば。おん身の心底(しんてい)善(ぜん)か悪(あく)か。分明(ふんみやう)ならず。妹(いもと)が仇(あた)を報(むくは)んと