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独(ひとり)胸(むね)をいため安(やす)き心(こゝろ)はせざりけり。しかるに伴(ばん)左衛門いつのほどよりか。
藤波(ふぢなみ)に恋慕(れんぼ)し。千束(ちづか)の艶書(ゑんじよ)をおくるといへども。藤波(ふぢなみ)は手(て)にもふれず。
尽(こと〴〵)くこれをもどして。一言(ひとこと)の返荅(いらへ)だにせず。伴(ばん)左衛門 一向(ひたすら)思ひとゞま
らず。折(をり)をうかゞひひまを見て。おどしつすかしつかきぐとく。藤波(ふぢなみ)はじ
めは彼(かれ)が恨(うらみ)憤(いきどほ)らん事をおそれて。心(こゝろ)一ツにをさめおきけるが。今はやむこと
を得(え)ず。桂之助(かつらのすけ)に艶書(えんじよ)を見せて。彼(かれ)かふるまひをつぶさに告(つげ)ぬ。桂之助(かつらのすけ)は
短気(たんき)の生(うま)れなるうへに。心(こころ)狂(くるは)しくなりたる時(とき)なれば。これを聞(きく)とひとしく
奮然(ふんぜん)として怒気(どき)天(てん)にさかのぼり。急(いそ)ぎ伴左衛門をめし出(いだ)し。かの艶書(ゑんじよ)
をくりひろげていひけるは。汝(なんじ)藤波(ふぢなみ)に不義(ふぎ)をいひかけ。数通(すつう)の艶書(ゑんじよ)を
おくる条(しやう)。罪科(ざいくわ)甚(はなはだ)重(おも)し。後日(ごにち)の見せしめに。我(われ)みづから手(て)をくだす
なりといひもあへず。白鞘巻(しらさやまき)を抜(ぬき)はなしければ。次(つぎ)の間(ま)にひかへたる
山(さん)三郎いそがはしく走出(はしりいで)。袖(そで)にすがりて押(おし)とゞめ。詞(ことば)を尽(つく)してなだめける
にぞ。やう〳〵刀(かたな)をおさめ。しかるうへは汝(なんぢ)にめでゝ一命(いちめい)をたすけ。長(なが)く勘当(かんだう)す
なりとて。かたはらに命(めい)じて。伴(ばん)左衛門が大小をもぎとらせ。庭上(ていしやう)に引(ひき)おろさ
しめければ。伴(ばん)左衛門は一言(いちごん)の分説(いひわけ)なく。只(たゞ)打(うち)しほれてぞ伏(ふし)居(ゐ)たる。桂之助(かつらのすけ)
山(さん)三郎を顧(かへり)み。汝(なんぢ)上草履(うはぞうり)を以(もつ)て。伴(ばん)左衛門が面(おもて)を打(うち)。辱(はづかし)めを与(あた)へよと
命(めい)ず。山(さん)三郎 頭(かしら)をさげ。御憤(おんいきどほり)はうべなれども。さすがに彼(かれ)は。執権職(しつけんしよく)を
仕(つかまつ)る道犬(だうけん)が児子(せがれ)にて候へば。この侭(まゝ)御いとまつかはされくだされかしと願(ねがふ)を。
聞入(きゝいれ)ず。いな〳〵彼がごとき人畜(にんちく)は面(おもて)に糞汁(ふんじふ)をそゝぐとも飽(あき)たらず。とく〳〵
打(うて)よ。たゞし我(わが)命(めい)を背(そむく)かと。いきまきつゝいふ。山(さん)三郎おそれいりおふせを背(そむく)
には候はねども。傍輩(はうばい)の因身(よしみ)武士(ぶし)の情(なさけ)に候へば。辱(はづかしむ)るにしのびず。押(おし)て願(ねがひ)
奉(たてまつ)るといはせもはてずいな〳〵何の宥免(ゆうめん)あらん。汝(なんぢ)若(もし)打(うた)ずんばともに