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なむ右衛門が夢中(むちう)の事(こと)をきゝ。灯火(ともしひ)をかゝげてかの巻物(まきもの)を熟覧(じゆくらん)し。
掌(て)を打(うち)ていひけるは。奇(き)なるかな妙(みやう)なるかな。巨勢(こせ)の金岡(かなをか)は。清和(せいわ)。陽成(やうぜい)
光孝(くわうかう)。宇多(うだ)。醍醐(たいご)の五朝(ごちやう)に仕(つか)へて。官(くわん)大納言(だいなごん)に至(いた)る。曽(かつ)て御府(ぎよふ)に蔵(おさめ)
玉ふ金岡(かなをか)が画(ゑが)ける馬(うま)。毎夜(まいや)萩(はぎ)の戸(と)のほとりに出(いで)て。萩(はぎ)の花(はな)をくひしと。
古今著聞集(ここんちよもんしふ)に見えたり。また仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)に金岡(かなをか)が画馬(ぐわば)あり。近(ちかき)
田(た)のほとりに出(いで)て。稲(いね)の苗(なへ)をくひしといふ。また河内(かはち)の国(くに)金田村(かなだむら)牛頭(こづ)
天王(てんわう)の社頭(しやとう)の。金岡(かなをか)が筆(ふで)の絵馬(ゑま)。ぬけ出(いだ)しといふたぐひの説(せつ)は。かねて聞(きゝ)
伝(つた)ふるといへども。目前(まのあたり)かゝる奇特(きどく)を見る不思議(ふしぎ)さよ。抑(そも〳〵)此(この)百蟹(ひやくがい)の図(づ)
は金岡(かなをか)殊(こと)に精神(せいしん)をこめ。螃蟹(かに)の絵(ゑ)に妙(みやう)を得(え)たる。唐代(とうのよ)の名画(めいぐわ)。韓滉(かんくはう)
といふ者(もの)。玄宗皇帝(げんそうくわうてい)の勅(ちよく)によりて画(ゑがき)たる。百蟹(ひやくがい)の図(づ)にならひてかきたる
とは聞(きゝ)つるが。見るは今(いま)がはじめなり。神彩(しんさい)飛動(ひどう)誠(まこと)に生(いけ)るが如(ごと)し。奇特(きどく)ある
もうべなり。某(それがし)これを見て画道(ぐわうだう)の奥儀(おうぎ)をきはめたりといひつゝ
歓(よろこ)びて巻物(まきもの)をおしいたゞき。再(ふたゝび)又いひけるはこれにつきて思ひいだせる
物語(ものがたり)あり。昔(むかし)山城国(やましろのくに)相良郡(さがらこほり)《割書:元享釈書に|久世郡》綺田村(かはたむら)に。一個(ひとり)の美女(びぢよ)あり。
曽(かつ)て仏道(ぶつだう)を信(しん)ず。一時(あるとき)里人(さとびと)あまたの蟹(かに)を捉(とら)へ煮(に)てくらはんとす。かの女
是(これ)を見てあはれみ。美食(びしよく)にかへて蟹(かに)を尽(こと〴〵)く池(いけ)にはなつ。又その父(ちゝ)一時(あるとき)
野(の)に出(いで)て。蛇(へび)の蟇(かいる)を呑(のむ)を見てあはれみ。若(もし)蟇(かいる)をはなちやらば我(わが)娘(むすめ)を
汝(なんぢ)にあたへんといふ。蛇(へび)これをきゝ入(いれ)たるさまにて蟇(かいる)を吐(はき)て去(さら)しむ。その
夜(よ)衣冠(いくわん)の若人(わかうど)来(きた)りて。約(やく)のごとく女(をんな)を与(あた)へよといひて一室(いつしつ)にいり。忽(たちまち)
大蛇(だいじや)と変(へん)じて女(をんな)の身(み)をまとふ。時(とき)に前(さき)の日(ひ)たすけられたるあまたの
蟹(かに)こゝに集(あつま)り。大蛇(だいじや)の遍身(へんしん)を螯殺(はさみころ)して女(をんな)をすくひ。大蟹(おほがに)は去(さり)小蟹(こがに)
はそこに死す。よりてその所(ところ)に蟹(かに)および蛇(へび)のからをうづめ寺(てら)を建(たて)て