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むるにゆゑなし。いざとく〳〵とて。背(せ)をおしむけて老母(ろうぼ)を負(おひ)。住家(すみか)の方(かた)を問(とひ)
つゝ走行(はせゆき)けり。さて嘉門(かもん)はひとり家(いへ)にありて。母(はゝ)の帰(かへ)りのおそきを案(あん)じ。殊(こと)
更(さら)俄(にはか)の大雪(おほゆき)なれば。途中(とちう)さぞわびしからんと心(こゝろ)ならず。蓑笠(みのかさ)打着(うちき)ていほりを
出(いで)。母(はゝ)の帰路(きろ)を斥(さし)ていそぎけるが。むかふの方(かた)より老母(ろうぼ)。若(わかき)男(をとこ)におはれ来(きた)り。
嘉門(かもん)を見て喜(よろこ)びければ。嘉門(かもん)もやう〳〵心(こゝろ)おちつき。おん迎(むかひ)の為(ため)これ迄(まで)参(まいり)候と云(いふ)にぞ。老母(ろうぼ)
若者(わかもの)の背(せ)よりをりたち。途中(とちう)にて荒熊(あらくま)に出会(いであい)ほど〳〵命(いちめい)を失(うしな)ふべき
を。此(この)おん方(かた)の情(なさけ)にて危急(きゝう)をまぬかれ。しかのみならず。これまで負(おひ)玉はりし
とかたれば。嘉門(かもん)若者(わかもの)にむかひ。母(はゝ)をいたはり玉はる御芳志(ごほうし)。謝(しや)し尽(つく)しがたしと
相(あい)のぶる。時(とき)に若者(わかもの)雪中(せつちう)に身(み)を伏(ふし)て礼(れい)をおこなひ。卒示(そつじ)ながらおん身(み)は。
梅津(うめづ)の嘉門(かもん)どのにはあらずやといふ。嘉門(かもん)荅(こたへ)て。某(それがし)かゝる深山(みやま)に住(すみ)鹿(しか)猿(さる)
と臥戸(ふしど)を共(とも)にする身(み)なれば。名(な)を知(し)る人(ひと)もあるまじきに。いかにして我(わが)姓名(せいめい)を
しり玉ふや。いぶかしさよといひければ。若者(わかもの)益(ます〳〵)かしらをさげ。たとへ泥中(でいちう)に
尾(を)を曳(ひき)玉ふとも。先生(せんせい)の雷名(らいめい)を誰(たれ)かしらざる者(もの)あらんや。かしこの山寺(やまでら)
にてこれなる御老母(ごろうぼ)は。先生(せんせい)の母人(はゝびと)なるよしをうけ玉はり。しひてこれまで
送(おく)り来(き)しも。先生(せんせい)にま見へん事(こと)をこひねがふがゆゑなり。某(それがし)は武士(ぶし)の
浪人(ろうにん)なるが。何(なに)とぞ軍略(ぐんりやく)智謀(ちぼう)の人傑(じんけつ)にしたがひ。兵学(へいがく)の余緒(よしよ)なり
ともうかゞひ知(し)り。再(ふたゝび)家(いへ)をおこさんものと思ひ立(たち)。師(し)とたのむべき人品(ひとがら)を
聞(きゝ)つくろふに。此(この)山(やま)の谷蔭(たにかげ)に世(よ)を避(さけ)て住(すむ)。梅津(うめづ)の嘉門(かもん)といふ人(ひと)。生得(うまれえて)頓(とん)
智(ち)聡明(そうめい)にして。軍学(ぐんがく)に眼(まなこ)をさらし。石黄(せきくわう)孫呉(そんご)が奥儀(おうぎ)をきはめ。武略(ぶりやく)
衆(しゆう)に秀(ひいで)玉ふよし。その才名(さいめい)かくれなく。曽(かつ)て兼好法師(けんかうほうし)の草紙(さうし)になら
ひ。武道徒然草(ぶだうつれ〴〵ぐさ)といふ。兵法(へいほう)の奥儀(おうぎ)を記(しる)せし書(しよ)を。編(あみ)玉ふよし
うけたまはりて。わざ〳〵当国(とうごく)にうつり住(すみ)。いかにもして相(あい)まみへ。兵学(へいがく)の