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痛(いたみ)堪(たへ)がたく。心気(しんき)日(ひ)をおひておとろへけり。母(はゝ)銀杏前(いてふのまへ)歎(なげき)悲(かな)しむことおほかた
ならず。神社(しんじや)仏閣(ぶつかく)に立願(りうぐわん)し。名僧(めいそう)知識(ちしき)の加持祈祷(かぢきとう)を乞(こふ)といへども。
妖鼠(ようそ)しりぞかず。益(ます〳〵)怪(あやし)きことのみおほかりけり。名古屋(なごや)父子(ふし)は昼夜(ちうや)病床(びやうしやう)を
はなれず。看病(みとり)けるが。三郎左衛門 山(さん)三郎にむかひていひけるは。我(われ)
曽(かつ)て酉陽雑組(ゆうやうざつそ)を見(み)るに。人(ひと)夜(よる)臥(ふす)にゆゑなうして髻(もとゞり)を失(うしな)ふ者(もの)鼠(ねずみ)の
妖(よう)なり。又 鼠(ねずみ)人(ひと)および牛馬(ぎうば)に着(つく)ことありて昼夜(ちうや)避(はなれ)ず。いかんともすることなし
といへり。若君(わかぎみ)の御客体(ごようだい)をうかゞふに。彼(かの)書(しよ)に記(しる)す所(ところ)の。尋常(よのつね)の妖(よう)
鼠(そ)とおなじからず。うたがふらくは呪咀(しゆそ)する者(もの)ありて障礙(しやうげ)をなすとおぼゆる
なり。汝(なんじ)心(こゝろ)をつけて怪異(けい)の出所(しゆつしよ)を見(み)あらはすべしといひければ。山(さん)三郎
某(それがし)も左(さ)こそ思(おも)ひ候なれとて。これより別(べつ)して心(こゝろ)をもちひ。寝殿(しんでん)の四方(しはう)に
眼(まなこ)をくばりて守護(しゆご)しけり。さて一夜(あるよ)丑(うし)三ツのころ。銀杏(いてふ)の前(まへ)をはじめ。
御手医者(おんていしや)。乳母(めのと)侍女等(こしもとら)もおぼへずねふりを生(しやう)じたるに。不思議(ふしぎ)や
丈(たけ)抜群(ばつぐん)の大鼠(おほねずみ)。行廊(ほそどの)の方(かた)より歩(あゆ)み来(きた)る。形(かたち)は常(つね)の鼠(ねずみ)にかはらずといへ
ども。其(その)おほきさは犬(いぬ)のごとく。すさまじき形勢(ありさま)なり。あなあやしやと
山(さん)三郎。刀(かたな)を携(たづさ)へつらづえつき。瞬(またゝき)もせず見(み)ゐたるに。かの鼠(ねづみ)いきほひ
こみて。若君(わかぎみ)の病床(びやうしやう)近(ちか)く飛来(とびきた)る。山三郎いそがはしく立上(たちあが)り刀(かたな)を抜(ぬき)。
まちまうけて丁(ちやう)ど切(きる)に。妖鼠(ようそ)はやく身(み)をおどらして剣(つるぎ)を避(さけ)。あかり障子(しやうじ)を
蹴(け)やぶりて。庭上(ていしやう)に走(はし)り出(いで)築墻(ついぢ)のうへに飛(とび)のぼる。山三郎 追(おひ)かけいで。手(て)
ばやく小柄(こづか)を抜(ぬき)とりて。はつしと打(うて)ばあやまたず。鼠(ねずみ)の額(ひたい)にずばとたち。鮮(せん)
血(けつ)たら〳〵と流(なが)れけるが。忽(たちまち)一道(いちたう)の煙(けふり)のごとき妖気(ようき)立(たち)のぼり。頼豪院(らいがういん)が
姿(すがた)髣髴(ほうほつ)とあらはれたり。山三郎さてこそ怪(あやし)き曲者(くせもの)と思ひつゝ。おどり上(あが)りて
頛額(まつかう)二つと斬(きり)つくる。頼豪院(らいかういん)閃(ひらり)と身(み)を避(さけ)。平形金珠(いらがたすゞ)をおしもみて。