← 前のページ
ページ 79 / 192
次のページ →
翻刻
あらねども。盲目(めしい)となりし我子(わがこ)ゆゑ。道(みち)に迷(まよ)へる杖(つゑ)小笠(おがさ)。旅(たび)にやつれし
女房(にやうぼう)の。琵琶(びは)を背上(せなか)によこたへし。盲児(めくら)の手(て)を引(ひき)て。四年(よとせ)ぶりにて我家(わがいへ)の。
軒(のき)の垣衣(しのぶ)の露(つゆ)ふかき。草(くさ)踏分(ふみわけ)て柴折戸(しばのをりど)をほと〳〵と打(うち)たゝけば。たそととがめ
て。なむ右衛門 戸(と)をひらき見てげれば。妻(つま)の礒菜(いそな)子(こ)の文弥(ぶんや)。京(きやう)よりかへりし
体(てい)なれば。こは思ひかけずよとて。まづともなひてうちに入(い)る。楓(かへで)ははやく
母(はゝ)の声(こへ)を聞(きゝ)つけて。いそがはしく走(はし)り出(いで)。夫婦(ふうふ)兄弟(きやうだい)四人(よにん)の者(もの)ひさし
ぶりの対面(たいめん)に。たがひの喜(よろこ)びいふべからず。楓(かへで)は盥(たらい)に湯(ゆ)をたゝへ。母(はゝ)の
裏脚(はゞき)草鞋(わらづ)をとき。足(あし)をそゝぎなどすれば。今(いま)にかはらぬ孝行(かうこう)やと。
うれしさに堪(たへ)ざりけり。さて礒菜(いそな)夫(おつと)にむかひ。いふこと聞(きく)ことあまた
にて。何(なに)から語(かた)りはべらんや。且(まづ)申すべきは文弥(ぶんや)事(こと)。幼年(ようねん)なれども芸(げい)
道(だう)に心(こゝろ)をゆだね。片時(へんし)もおこたらざりしかばおのづから妙(みやう)を得(え)て。師匠(ししやう)沢角(さはつの)
検校(けんぎやう)どのも。たぐひまれなる器用者(きようもの)と。賞美(しやうひ)し玉ひ。紫檀(したん)の甲(かう)の
琵琶(びは)一面(いちめん)に。秘曲(ひきよく)の免状(めんじやう)をそへて玉はりぬれば。一ツには彼(かれ)が一曲(いつきよく)をきかせまほ
しく。二ツには楓(かへで)が顔(かほ)も見まほしく。すゞろに古郷(こきやう)がなつかしく。文弥(ぶんや)もまた
おん身(み)や姉(あね)を恋(こひ)しがり候ゆゑ。俄(にはか)に思ひ立(たち)。師匠(ししやう)にしばしのいとまを乞(こひ)。まかり
下(くだ)り候ひぬと。ものがたれば。なむ右衛門ひたすら喜(よろこ)び。ひさしぶりの対面(たいめん)無事(ぶし)の
顔(かほ)見て安堵(あんど)なり。芸道(けいどう)も上達(しやうたつ)せしとや。しばし見ぬうち。さても能(よく)生立(おひたち)しな。見
たがふばかりに丈(たけ)高(たか)うなりけるぞとて。余念(よねん)なく文弥(ぶんや)が頭(かうべ)を撫(なで)つゝいへば。文(ぶん)
弥(や)は恭(うや〳〵)しく両手(りやうて)をつき。父上(ちゝうへ)御安体(ごあんたい)の様子(やうす)をうかゞひ。喜(よろこ)びに堪(たへ)はべらずと。
おとなしやかに相(あひ)のぶる。楓(かへで)はことし十六 才(さい)。姿(すがた)ます〳〵美麗(びれい)にて。手織木綿(ておりもめん)
の振袖(ふりそで)も。綾羅(れうら)にまかふ風情(ふぜい)なるが。母(はゝ)のそばにちかくより。長(なが)〴〵の御在(ござい)
京(きやう)。さぞ御苦労(ごくろう)をなされんと。あけくれ気(き)づかひくらせしが。恙(つゝが)なき体(てい)を見て。