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若君(わかぎみ)をおとしまゐらす。支度(したく)せばやと思ひつゝ。立上(たちあが)る折(おり)しも。妻(つま)いそ菜(な)息(いき)も
つきあへずはせ帰(かへ)り。様子(やうす)はいかにとたづぬれば。文弥(ぶんや)が一念(いちねん)頭(かうべ)にとゞまり。
陰気(いんき)を吐(はき)て。眼平(がんへい)が眼(まなこ)をくらませ。十 分(ぶん)に欺(あざむ)きしときゝて。いそ菜(な)は心(こゝろ)おち
つき。かの巻物(まきもの)をとり出(いだ)してわたせば。なむ右衛門ひらきみて。お家(いへ)の重(ちやう)
宝(ほう)に。まぎれなしとて巻(まき)おさめ。これさへあればそれがしが。汚(けがれ)たる名(な)をそゝぎ。
末代(まつだい)までもきよかるべし。これといふも楓(かへで)が孝心(かうしん)ふかきゆゑぞ。娘(むすめ)はもはや旅(たひ)
立(たち)しか。あな不便(ふびん)や。さそかなしからん。今(いま)思へば。かれを楓(かへで)となづけしも。かへで
は蟇手(かいるで)の略訓(りやくくん)にて。小蛇(しやうじや)のたゝる前表(ぜんひやう)ならん。文弥(ぶんや)が初名(しよめい)を栗(くり)太郎と名(な)づしけも。
丹波(たんば)の国(くに)の爺打栗(てゝうちぐり)。爺(てゝ)に打(うた)るゝ因縁(いんえん)か。只(たゞ)此(この)うへは文弥(ぶんや)めが。菩提(ぼだい)をとふが
肝要(かんやう)なり。眼平(がんへい)一度(ひとたび)仮首(にせくび)をとりゆきしが。今(いま)にそれとあらはれて。ふたゝび
こゝによせ来(きた)らんは必定(ひつぢやう)なり。片時(へんし)もはやく若君(わかぎみ)を。おとし申すにしかじと
いひて奥(おく)に入(いり)。月若(つきわか)の手(て)をたづさへて立(たち)いづれば。若君(わかぎみ)は目(め)を泣(なき)はらし。
夫婦(ふうふ)の忠節(ちうせつ)過分(くわぶん)なり。便(びん)なき文弥(ぶんや)が身(み)のはてやと。なげき
のたまふ一言(ひとこと)が。世(よ)にあるときの千石(せんごく)より。夫婦(ふうふ)が身(み)にはありがたく。
なむ右衛門 巻物(まきもの)を懐中(くわいちう)し。躯(むくろ)をいれたる葛篭(つゞら)をせおひ。若(わか)
君(ぎみ)のおん手(て)をとれば。妻(つま)のいそ菜(な)は琵琶(びは)をいだき。地水火風(ちすいくわふう)の四ツ
の緒(お)の。きれし我子(わがこ)のかたみぞと。転手(てんじゆ)撥面(ばちめん)半月(はんげつ)の。月(つき)の光(ひか)りを
たよりにて播磨(はりま)のかたへぞおちゆきける
○かくて。なむ右衛門 夫婦(ふうふ)。若君(わかぎみ)を扶(たすけ)て。播磨(はりま)より河内(かはち)にいたり
取縁(しよえん)の寺(てら)にたよりて。文弥(ぶんや)が躯(むくろ)を煙(けふり)となし。かたみの琵琶(びは)
を施物(せもつ)として。仏事(ぶつじ)をいとなみ。若君(わかぎみ)にいそ菜(な)をつけて。かの寺(てら)
に忍(しの)ばせおき。その身(み)はかの巻物(まきもの)をたづさへ。桂之助(かつらのすけ)銀杏(いてふの)