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聲にしきられて行もやられぬ関ヶ原哉関の藤川あとを越る
折ふし一人の老人にあふ老人いふ人〻は月見の客と見えたり我
則かしこに住ゐたるもの也我茅屋にして今夜の月は見給ひ
なんといふにそ皆悦ひ老人の家にいたる其洒掃も清廉
にして風色尤濃か也其側に小洞あり世に月見の社と称す
藤川記云関屋の中にちいさきほこらの有を里人にたつね
侍りけれは是なん浄見原の天皇をいはひ奉るといふまことや彼
御世にいくさを防んとて立られしことなれと今は関のやうにも
あらぬを見侍りて〽清見原遠き守の名をとめて関のかた
めはさもあらはあれとよめるも是也とかややゝ黄昏時にもなれ
は近里遠村の人此の木陰かしこの畠なと草を席とし酒
のみ今様聲おかしくうたひ月峰にさしのほれは群客手をたゝき
声をあげ興に入るをと梺をとゝろかし峰にこたまして喧し亭
主老人かいふ聞玉へ人〳〵はる〳〵きぬる本意を失ふもの哉抑月
見はむかしを忍ひ故人を友とし詩作歌うたひ情を正しうして翫
のわざなるを世にあふれて皆人の心得たるを見聞に不破の
月は東嶺に出るの時恰も玉を台に居たるかことし又他所にかゝる
気色もなし其むかし始て見たる人こそゆかしけれなとおほめけり
誠に笑へきの甚しき也対雨応月の類兼好か月は隈なきをのみ
見る物かはといへりしこそ猶哀に情ふかけれ関屋抔も又しかり
荒はてゝ今は見処なしなといへるは頑愚野叟の人也将軍
義教永享の頃冨士見に下向の時俄に関屋をふきかへけれは
【左頁書込み】
《割書:永享後花|園院年号也》
《割書:此紀行は永享四年の秋也義教は足利将軍也権大僧都尭孝か御供にて道の記を書し也|》