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【右丁】
信(しん)ぜさせしにもあるべき既(すで)に俗傳(ぞくでん)に西行(さいぎやう)更科(さらしな)に住(すみ)けるときによめ
りとて
山川に汐(しほ)のみちひはしられけり秋風(あきかせ)さむく河鹿(かしか)なく也
是(これ)何(なん)の書(しよ)に出(いだ)せる哥(うた)ともしらずされども或人(あるひと)に就(つ)きて此哥(このうた)の意(こゝろ)
を尋(たづ)ぬればかしかは汐(しほ)の満(みち)ぬる時(とき)は川上(かわかみ)にむかひて軋々(ぎい〱)となき
汐(しほ)のひく時(とき)は川下(かわしも)に向(む)かひてこり〱と鳴(なく)くとは答(こた)へきされば
解(と)く處(ところ)ゴリキヽなど云(いふ)魚(うを)をさすに似(に)ていよ〱昔(むかし)の證㨿(しやうこ)には
あらず水中(すいちう)に聲(こへ)ある物(もの)は蛙(かわつ)水鳥(みづとり)の類(るい)ならて古(いにしへ)より吟賞(きんしやう)の例(れい)を
きかずされども西行(さいぎやう)は哥(うた)を随意(ずいゐ)につらねたるひとなれはものに
當(あた)つていかゞの物(もの)をよめりともあながちに語(ろん)ずるには及(およ)ばねども若(もし)
くは偽作(ぎさく)なるべし又 萬葉集(まんようしう)の哥(うた)なりとて《割書:一説( せつ)に落合(おちあい)の瀧(たき)とよみて大原(おほはら)に|建礼門院(けんれいもんゐん)の沽詠(こゑい)と云(いゝ)つたふ》
山川に小石(こいし)ながるゝころ〱と河鹿(かしか)なくなる谷(たに)の落合(おちあひ)
是又(これまた)萬葉集(まんようしう)にあることなし其余(そのよ)他書(たしよ)に栽(のせ)たるをもきこへ
【左丁】
す又 夫木集(ふほくしう)廿四雜六 岡本天皇(おかもとてんわう)御製(ぎよせい)とて
あふみちの床の山なるいさや川このころ〱に恋つゝあらん
このころ〱といふにつきてかしかの鳴(なく)によせしなりなといひ
もてつたへたり是又(これまた)誤(あやま)りの甚(はなはだ)しきなり是(これ)は萬葉(まんよう)第四に
あふみちの床の山なるいさや川けのころ〱は恋つゝあらむ
とありて代匠記(たいしやうき)の注(ちう)にけとは水気(すいき)にて川霧(かわきり)なりころ〱とは
唯(たゝ)頃(ころ)なり祢もころ〱とよみたる例(れい)のごとしと見(み)へてかならずかし
かの哥(うた)にはあらざるなり歌(うた)はかゝることどもにてかた〲さだか
ならずといへども今(いま)さしてそれと定(さだ)むべきかしかの證(せう)もなけれ
ば今(いま)は魚(うを)にもあれむしにもあれたゞ流行(りうかう)に従(したが)ひて秋(あき)の水中(すいちう)に
鳴(な)くものを河の鹿(しか)になすらへて凢(およそ)かしかといはんには強(しゐ)て妨(さまた)
けもあるまじきことながらさもあらぬ物(もの)によりて詠哥(ゑいか)なとせんこ
そいと口(くち)おしからめさらばまさしく古(ふるき)を求(もと)めんとならは長明(ちやうめい)