翻刻
たりしに折節(おりふし)上総国(かづさのくに)大多喜(おふたき)へ女中四五人下る成
に幸(さいわび)としるべあればわれも房州(ぼうしう)へ行(ゆか)ばやとて朋(ほう)
友(ゆう)に此事を談(だん)しつがふよくこしらへて右の女中
同道(どう〳〵)して御 関所(せきしよ)つゝがなく罷通(まかりとふり)当地(とうち)へ下着(げちやく)し夫(それ)
より以来(このかた)十四年此所に居住(きよぢう)いたし侍(はべ)るも此 刀(かたな)ゆへ
人を討(うち)たる身にて候へは敵(かたき)の子孫(しそん)ありてわれをね
らひ尋(たづぬ)るにてあらん若(もし)出合(であひ)なば尋常(じんしやう)に討(うた)れんと
思ひなから飢餲(きかつ)にせまり売(うり)喰(くら)ふ刀(かたな)ゆへに人をあや
めしなどゝ死後(しご)のそしりをそんじ知(し)りて只今(たゞいま)迄(まで)
餓死(がし)せんとせし事 数度(すど)あれど此刀は放(はな)さす此上
死(し)して人手にわたらんは是非(ぜひ)なしいきながらへん内は
売(うり)候儀思ひもよらずと返答(へんとう)しけるに五平次も此
物語(ものかたり)を聞(きゝ)重(かさね)而いはん詞(ことば)もなく又(また)折(おり)もこそあらめ
かく念(ねん)がけたるものつゐにうらせで置(をく)べきかと
悪念(あくねん)をはつしけれど更(さら)手(で)色(いろ)にも出さずかへりぬ
此後折にふれ時(とき)を得(ゑ)ては田舎(いなか)の住居(ぢうゐ)武士(ぶし)の義理(ぎり)は
いらざる物(もの)帯剣(たいけん)止(やめ)て百姓(ひやくしやう)の業(げう)を仕習(しなら)ひ給へ当分(とうぶん)
の渡世(とせい)こそ肝要(かんやう)也(なり)宝(たから)は身(み)の差合(さしあわ)せ刀(かたな)を何程(なにほど)
にも代(しろ)なし田畑(でんはた)少にても調(とゝの)へ御 息女(そくじよ)の後栄(こうゑい)を待(まち)
給へとすゝめける然共(しかれども)浪人(らうにん)曽而(かつて)承引(せうゐん)せず其内(そのうち)