翻刻
れば母はとかうのいらへもなくうつふしに伏(ふし)て泣(なく)
のみなるに娘(むすめ)は顔色(がんしよく)常(つね)のごとく悲しき体(てい)をも見せ
ず五平次が此年月 情(なさけ)なふつらかりしを思へは逢(あい)
そめしむかしうらめしく身(み)を捨(すて)成とも此金返し
なんと思ひつめて孝(こう)の為(ため)に命(いのち)をも捨(すつ)るならひま
してや勤奉公(つとめほうこう)せん事は年の限(かぎ)りあれは別(わか)れても又
父母に廻(めぐ)り逢(あわ)んをたのしみに暮(くらさ)んはいとやすき事よと
心よくこたへけれはおとなしくこう〳〵なる娘か詞(ことば)を
聞(きく)にも浪人 夫婦(ふうふ)はたゝ涙(なみだ)のみにむせび居(い)たりしが
果(はて)しなきなげきと明(あき)らめて五平次を呼(よ)び借用(しやくよう)
金返弁致すべき了簡(りやうけん)なし娘を売(うり)て身の代を以て
返済(へんさい)申たし一両日の中娘 同道(どう〳〵)し江戸へ罷出申たし
願はしからぬ事なから敵(かたき)持(もち)たる身(み)は今日出て明日
は斗(はかり)がたし殊(こと)に諸家(しよけ)集(あつま)れる幕府(ばくふ)の御 城下(じやうか)不(ふ)
意(ゐ)に出合 討(うた)れなんも斗(はかり)かたし若(もし)もの事あらは金
子は娘がかたより請取らるべし娘が在付(ありつき)の方は母
がもとへ申越べしといふ五平次以之外いかり行末(ゆくすへ)
知らぬ浪人の内室(ないしつ)斗(はかり)り残(のこ)され江戸へ御越しとは承(うけ給は)
れと何方(いづかた)へ立退(たちのか)れんもしらず金子請取候迄は
他国(たこく)へ御 越(こし)候事中〳〵叶(かな)ひ不_レ申御 息女(そくじよ)を勤奉(つとめほう)