翻刻
かたをば屏風(ひやうぶ)にてかこひ家はともし火をちかくた
てゝ打(うち)ふしたり山伏はいかれる面(おもて)すさましく佐
野右衛門が枕(まくら)ちかく立ゐて目ましろきもせずあれど
佐の右衛門さらに何ともおもはずゆたかにいねたり
夜明(よあけ)かたになりて山伏はきへうせぬ佐の右衛門
常(つね)のごとく起(をき)ゐてけふも山 狩(がり)に出んとしけるに雨(あめ)の
つよく降(ふ)れは出ずなりぬ佐の右衛門 妻(さい)にわひけるは
しはらくの内御 身(み)と二人の子は外の座敷(ざしき)に寝(ね)
給へ我は思ふむねあれは今宵(こよひ)よりひとりの間に
寝(ね)んと云けれは妻女(さいぢよ)ともかくもといらへて夜(よ)に
入て家内うちやすみけれは常(つね)のごとく佐の右衛門も
寝たるに今宵(こよひ)は山伏 前(まへ)の夜(よ)よりもはやく出て
つと立ゐたり佐の右衛門は更(さら)にめもやらで打ふしぬ
かくて夜 毎(ごと)に出てさのへもんをおにらみたる斗にて
外には何の怪(あやしき)事もなしされど後〳〵は妻女(さいじよ)を初
家内のものとも此山伏を見ては絶入(ぜつじ)して二三日
づゝ病(やまひ)にふしけれは妻の父(ちゝ)は同 家中(かちう)田村 軍蔵(くんぞう)
とて物頭役(ものかしらやく)してあれば妻は二人の稚(をさな)きを伴(ともな)ひ
行て帰らず従者(じうしや)もいつとなくいとまを乞(こふ)て皆(みな)出
さりけれはさのへもんも理(ことは)りと思ひていとま遣し