翻刻
かくて此 死霊(しれう)九年めの初秋(しよあき)の頃(ころ)よりは二三日つゝ程
を置て出夜のみ出る事もあり又 昼(ひる)ちらと見へて
夜は来らぬ事もありしがその冬(ふゆ)に至(いた)りては曾而(かつて)
来らず佐の右衛門親子もあやしみいかにしてか此 化物(ばけもの)
は出ざるやらんなどいひて待(まち)に其後はゆめにも来ず
かくて年もあらたまりぬれど死霊(しれう)はいよ〳〵影(かげ)
見えねは妻子 従者(じうしや)ももとのごとく呼(よび)かへし佐野
右衛門病気 全快(ぜんくはい)の義申 達(たつ)し勤仕(きんし)を願(ねが)ひて出(しゆつ)
勤(きん)し同役(どうやく)中を招(まね)き饗応(きやうをう)の上にて何やらん紙(かみ)に
包(つゝみ)たるものをひとり〳〵の前へ直(なを)し引廻れは人々
是はいかにといふに佐の右衛門いひけるは某(それかし)山伏を手
にかけし事 殿(との)の御用にて出たる道にての事にもあらず
私の遊山(ゆさん)に出山伏のらふぜきとは云(いひ)ながら畢竟(ひつきやう)
私なり然るに其 為(ため)に九年か間 勤仕(きんし)せざること
茗加(めうが)なき事共なるを各(をの〳〵)の深志(しんし)を以て代役(かわりやく)を
御 勤(つとめ)下されゆる〳〵病気 養生(やうじやう)いたしとてかく全快(ぜんくはひ)
仕段 皆(みな)人々の御 厚情(こうせい)いか様にいたしてもあきたら
ざる事なれ共すべきかたも侍らはず九牛(きうぎう)が一 毛(も)にも
即(およば)_レ不(すな)_レ及(はち)せめての寸志(すんし)に候とて九年が間の物成(ものなり)を十 余(よ)
人の相 番(ばん)の人々へわかち遣しけれは人々もさま〳〵