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【右頁】
二
今を距る一千餘年前今の豐橋の地には既に飽海幡太の二鄕あり何れ
も太神宮の神領地に屬せり豐川の名も亦舊記に見ゆる處なるが當時
内海は深く侵入して此地より直ちに對岸の寶飯郡渡津《割書:和多|無都》(今の宿村
より小坂井村附近の大稱なり)に渡舩したるものなり往昔志香須賀
の渡と稱せしは即ち之なり
源順の和名抄渥美郡の條に幡太和太(《割書:和地な|らんか》)渥美《割書:阿久|美》高芦《割書:多加|之》磯部《割書:以曾|倍》大
壁《割書:於保|加倍》と記載せり今の豐橋市大字飽海の名は渥美と相通ずるもの
にして大字花田の内羽田と稱するの地は又た幡太の遺跡なるべし
類聚三代格承和二年六月廿九日の太政官符渡舩の條に三河國飽海
矢作の両河各四艘とあるも此渡なり又神鳳抄に秦御厨神宮雜例集
に飽海神戸とあるは何れも此二鄕にして其往昔より神宮封邑たり
【左頁】
しを証するに足る源順の和名抄は延長年中の著なりと傳ふ延長元
年は明治四十二年を去る約九百八十七年の昔にして承和二年は仝
壹千〇七十五年の昔にあり又志香須賀の渡の名が往々古き撰集記
行等に散見せるは多く人の知る處とす
其の後幾多の年月を經て此の二鄕の間に今橋と稱する地あるに至り
しが後漸く發展の機運に遇ひ遂に今の豐橋市の基礎をなすに至りし
ものなり
今橋の名は其起因詳ならずと雖も其名の文書に殘れるは應永十六
年のものを最古しとなす又悟眞寺舊記に貞治五年其開祖善忠初め
て今橋に來る當時此地草野にして只五六の農家を見るのみと記せ
り貞治五年は明治四十二年を去ること凡五百四十二年にして應永
三