翻刻
【右頁】
四
十六年は明治四十二年を去ること五百〇一年なり
永正二年今川氏の將牧野左衛門(《割書:一に傳内又は田内或は|田三に作る名は成時》)初めて氏親の命に依
り其子(一に甥に作る)傳藏(《割書:一に田三に作|る名は成方》)を輔けて城を此地に築き牛久保
より移りて之に居りしが享祿二年德川淸康の攻むる所となり傳藏其
弟傳次(《割書:名は|成高》)と共に戰死し城遂に陷る後淸康死するに及び復た今川氏
の有に歸せり
牧野左衛門が初めて築きし城は其後幾多の變遷を經たるも今は歩
兵十八聯隊のある所にして永正二年は明治四十二年を去ること
四百〇五年なり
天文中今川義元命じて此地名を吉田と改稱せり
今橋の地名を吉田と改稱したるに就ては數說あり然れども大永二
【左頁】
年の宗長手記及天文二年の尊海僧正道之記等には尚ほ今橋の名を
記し又た天文中今川義元の羽田淸源寺寄附狀には既に吉田鄕と記
せるより推せば其皆名を以て天文の初期なりとなすの說正當なる
べく從て義元が命じたるものとの說亦事實となすべし天文元平は
明治四十二年を去ること三百七十八年なり
其後義元死し氏眞之を襲き其將小原鎭實此城を守りしが永祿七年德
川家康の大擧して之を圍むや城兵支へず鎭實遂に城を致して去れり
家康依て之を其臣酒井忠次に賜ふ
此に於て忠次先づ城地を修し又た大に市衢を定め元亀三年(或は元
年に作る)初めて豐川に架橋せり
酒井忠次が初めて豐川に架したるは土橋にして今の大字關屋の地
五