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【右頁】
七十二
せり後其子長矩之を今の處に移す小笠原氏累世の墳墓あり寺域千八百餘坪なるも今は
烏有に歸し僅に中門等を殘せるのみ
神宮寺
大字紺屋にあり天臺宗に屬し白雲山と號し寺域九百三十餘坪本尊は大日
如來にして本堂座敷庫裏鐘樓護摩堂等を存す又境内に舊吉田城主松平資訓の弟捨五郞
の墓あり没年を元文五年八月九日と記す
妙圓寺
は大字淸水にあり日蓮宗に屬す池田輝政の崇敬厚かりし寺にして寺域七
百三十餘坪境内に鬼子母神の堂あり
龍運寺 大字船町にあり淨土宗に屬し慶長六年の創建なるも其後水害又は火災に
遇ひ今の本堂は明治四十一年の再建なり域内に地藏堂觀音堂等あり地藏堂は元祿時代
のものにかゝる
興德寺 は大字上傳馬にあり今橋山と稱し其創立頗る古く舊朱印貳拾石を有せし
が今は殆ど荒廢に皈せり龍拈寺の末寺に屬す
吉田城趾 は今歩兵第十八聯隊兵營のある處なり此城は永正二年今川氏親の臣牧野
【左頁】
古白其子(一に甥に作る)傳藏を輔けて初めて築きし處にして享祿二年德川淸康の爲に
奪はれ後再び今川氏の有に皈し小原鎭實之に居りしが永祿七年再び家康の有する處と
なり之を酒井忠次に賜ふ爾來明治維新に至る迄世々の藩主之に據り明治十七年六月初
めて兵營を設けらる城内の面積凡そ三万七千七百坪を有す
仁連木の城趾 大字東田にあり東西五町餘南北六町餘にして今は大半陸田と水田
とに變ず天文十年戸田宣光の城ける處にして爾來天正十八年戸田氏が德川家康に從ひ
て關東に移封せらるゝ迄根據とせし處なり其間宣光の子重貞欵を家康に通じて吉田城
の主將小原鎭實を攻め後元龜二年武田信玄の圍む處となり又天正三年武田勝賴の侵す
處となる等事歷頗る多し戸田氏移封の後遂に之を荒廢に委せり
豐橋 は豊川に架せる橋梁にして元龜元年(一に三年に作る)酒井忠次が吉田城
主たりし時初めて關屋の地点に土橋を架せしが天正十八年池田輝政の吉田城主となる
に及び城地を擴張し其翌十九年之を大字船町の地に移し板橋となせり今の橋梁は明治
十二年三月の改造にして舊來の地点とは約二町の上流にあり長さ九十七間幅四間にし
七十三