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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之4 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之4 - ページ 35

ページ: 35

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【右丁】  《割書:地(ち)を鮫濵(さめはま)といひ又(また)鮫頭崎(さめつかさき)ともいふ海(うみ)の方(かた)へ百八十間 余(よ)|南北(なんほく)へ八町の洲崎(すさき)なり依(よつ)て鮫洲崎(さめつさき)といひしよし江戸砂子(えとすなこ)にみゆ》又 時頼朝臣(ときよりあそん)南北(なんほく)十二  町 東西(とうさい)十町の地(ち)を寄捨(きしや)ありて五箇(こか)の僧坊(そうはう)に百八十貫文(ひやくはつしつくわんもん)を附(ふ)せ  らる八十宇(はちしふう)の房舎(はうしや)は巍然(きせん)として甍(いらか)をならへたり又 天竺(てんちく)の靈鷲(れうしゆ)  山(せん)に準(なそら)へ南紀(なんき)の髙野山(かうやさん)に擬(き)し給ひしかは有信(うしん)の軰(ともから)は月牌(くわつはい)を置(おき)石(せき)  塔(たふ)を建(たつ)《割書:弘安(こうあん)五年には北条時宗(ほうてうときむね)願主(くわんしゆ)として堂塔(たうたふ)重修(ちゆうしゆ)|せられ月牌料(くわつはいりやう)として二十貫文(     くわんもん)寄附(きふ)ありしとなり》殊更(ことさら)重罪(ちゆうさい)の軰(ともから)たり  とも當寺(たうし)に入者(いるもの)は其罪(そのつみ)を免許(めんきよ)すへき則(のり)を定(さため)給ふ山庫(さんこ)僧供(そうく)は四  方十里の間(あひた)頭陀(つた)の免許(めんきよ)ありしとなり《割書:往古(そのかみ)當寺(たうし)開創(かいさう)の頃(ころ)松(まつ)槻(けやき)各(おの〳〵)二千|株(ちゆう)を植(うゑ)洲崎(すさき)に八幡三社(はちまん  しや)を営(いとな)み》  《割書:建(たつ)る其松(そのまつ)の枝葉(しえふ)行路(かうろ)を覆(おほ)ひて繁茂(はんも)せしかは其頃(そのころ)郷童(さとのわらへ)の唄(うた)に品川浦(しなかはうら)は名所(めいしよ)かな|海晏寺(かいあんし)前(まへ)の《振り仮名:まかり松|      まつ》御代(みよ)もさかえてめてたさよと諷(うた)ひしとなり鄙言(ひけん)挙(あく)るに堪(たへ)すと》  《割書:いへともしはらくこゝに注(ちゆう)すのみ|》 鮫頭明神祠(さめつみやうしん  ) 砂水(さみつ)の海濵(かいひん)にあり祭神(まつるかみ)詳(つまひらか)ならす土俗(とそく)傳(つた)へ云 往古(そのかみ)  此地(このところ)へ丈餘(ちやうよ)の鮫(さめ)の揚(あか)る事ありしに其頃(そのころ)此地(このち)大(おほい)に疫疾(えきしつ)流行(りうかう)せし  かは此鮫(このさめ)の祟(たゝり)ならんと恐怖(きやうふ)して漁人(きよしん)其頭(そのかしら)を一社(  しや)の神(かみ)に祀(まつ)るとなり    《割書:按(あんする)に此(この)祭神(さいしん)を鮫(さめ)の頭(かしら)とする事 恐(おそ)らくは海晏寺(かいあんし)本尊(ほんそん)の縁起(えむき)に混(こん)して附會(ふくわい)|せしなるへし或人(あるひと)云(いは)く砂水(さみつ)昔(むかし)は鮫洲(さめつ)に作(つく)りけると然(しか)らは鮫洲(さめす)の明神(みやうしん)と祚(とな)へて》 【左丁】    《割書:佳(か)ならん欤(か)或(ある)冊子(さうし)に云(いは)く此所(このところ)に佐美津川(さみつかは)とて細(ほそ)き流(なかれ)の潮(しほ)と交(まし)らすして佐美津(さみつ)|はかりなりとて名付(なつけ)しといふとあり猶(なほ)訂正(ていしやう)すへきのみ》 上古海道(しやうこのかいたう) 品川(しなかは)より池上(いけかみ)へ行道(ゆくみち)大井(おほゐ)より北(きた)の方 東海寺(とうかいし)南門(みなみもん)の  向(むかふ)の岱(やまきは)往古(いにしへ)の品川(しなかは)の驛路(えきろ)なり《割書:土人(としん)今(いま)も元(もと)|品川(しなかは)といふ》其(その)道筋(みちすち)大井(おほゐ)荒藺(あらゐ)池上(いけかみ)  矢口(やくち)とつゝきしなり《割書:今(いま)も八景坂(やけいさか)より西南(にしみなみ)池上(いけかみ)へ行道(ゆくみち)に昔(むかし)の一里塚(  りつか)の榎(えのき)一株( ちゆう)|残(のこ)れり又 其辺(そのあたり)の藪中(やふなか)に標(しるし)の石(いし)今(いま)も存(そん)せりとなり延喜(えむき)》  《割書:式(しき)大井驛(おほゐのえき)傳馬(てんま)の事 證(しよう)とすへし|》  延喜式曰   諸國驛傳馬《割書:中略|》 武蔵國驛馬 店屋 小髙   大井 豊嶋 各十疋《割書:下略|》 海賞山(かいしやうさん)来福寺(らいふくし) 砂水(さみつ)御林町(おはやしまち)にあり真言宗(しんこんしう)にして本尊(ほんそん)に地蔵(ちさう)  菩薩(ほさつ)を安置(あんち)す弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)《割書:御丈(みたけ)九|寸八分》なり梶原氏(かちはらうち)の草創(さう〳〵)にて  則(すなはち)此地(このち)は其(その)宅地(たくち)なりしとなり縁起云(えむきにいふ)此(この)本尊(ほんそん)は梶原氏(かちはらうち)代々(よゝ)其家(そのいへ)に  相傳(あひつた)へて尤(もつとも)靈威(れいゐ)なり然(しかる)に元亨(けんかう)の頃(ころ)智辨(ちへん)と云(いふ)沙門(しやもん)眼疾(かんしつ)を患(うれ)ひ  此(この)本尊(ほんそん)に祈念(きねん)して不日(ふしつ)に本快(ほんくわい)を得(え)たり其後(そのゝち)世(よ)の中(なか)大(おほい)に乱(みた)る尓(しかるに)  本尊(ほんそん)の所在(しよさい)しれさりしに文亀年間(ふんきねんかん)梅巖阿闍梨(はいかんあしやり)當寺(たうし)より四五町  西(にし)の方 経塚(きやうつか)といへる地(ところ)にてこれを感得(かんとく)せしとなり《割書:経塚(きやうつか)の来由(らいゆ)は|次(つき)に詳(つまひらか)なり》

現代語訳

【右丁】 地を鮫浜といい、また鮫頭崎ともいう。海の方へ百八十間余り、南北へ八町の洲崎である。そのため鮫洲崎といったと『江戸砂子』に見える。また時頼朝臣は南北十二町、東西十町の地を寄進され、五ヶ所の僧坊に百八十貫文を付けられた。八十宇の房舎は巍然として軒を並べていた。また天竺の霊鷲山になぞらえ、南紀の高野山に擬せられたので、信仰のある人々は月牌を置き石塔を建てた。弘安五年には北条時宗が願主として堂塔を重修され、月牌料として二十貫文の寄付があったという。特に重罪の者であっても当寺に入る者はその罪を免許するという法を定められた。山庫や僧供は四方十里の間で頭陀の免許があったという。往古、当寺開創の頃、松と欅をそれぞれ二千株植え、洲崎に八幡三社を営み建てた。その松の枝葉が行路を覆って繁茂したので、その頃郷の童の唄に「品川浦は名所かな、海晏寺前のまかり松、御代もさかえてめでたさよ」と謡ったという。鄙びた言葉で挙げるに堪えないといえども、しばらくここに注すのみ。 鮫頭明神祠は砂水の海浜にある。祭神は詳らかでない。土俗の伝えによると、往古この地へ丈余の鮫が上がることがあったが、その頃この地に大いに疫病が流行したので、この鮫の祟りであろうと恐れて、漁人がその頭を一社の神として祀るという。按ずるに、この祭神を鮫の頭とすることは、おそらく海晏寺本尊の縁起に混じて付会したものであろう。ある人が言うには、砂水は昔は鮫洲に作ったという。そうであれば鮫洲の明神と称して 【左丁】 よいのではないか。ある冊子に言うには、この所に佐美津川という細い流れが潮と交わらずして佐美津ばかりであるとして名付けたというとある。なお訂正すべきである。 上古海道は品川より池上へ行く道で、大井より北の方、東海寺南門の向かいの岱が往古の品川の駅路である。土人は今も元品川という。その道筋は大井、荒井、池上、矢口と続いていた。今も八景坂より西南池上への行路に昔の一里塚の榎一株が残っている。またその辺りの藪中に標の石が今も存在するという。『延喜式』の大井駅伝馬のことがその証拠とすべきである。 延喜式に曰く 諸国駅伝馬(中略)武蔵国駅馬 店屋 小高 大井 豊島 各十匹(下略) 海賞山来福寺は砂水御林町にある。真言宗で本尊に地蔵菩薩を安置する。弘法大師の作(御丈九寸八分)である。梶原氏の草創で、すなわちこの地はその宅地であったという。縁起によると、この本尊は梶原氏が代々その家に相伝して最も霊験あらたかである。ところが元亨の頃、智弁という沙門が眼病を患い、この本尊に祈念して間もなく全快を得た。その後世の中が大いに乱れたが、本尊の所在が分からなくなっていたところ、文亀年間に梅巌阿闍梨が当寺より四、五町西の方、経塚という地でこれを感得したという。経塚の来由は次に詳しい。

英語訳

【Right page】 The land is called Samehama (Shark Beach), and also called Samezu-saki (Shark Head Point). It extends 180 ken and more toward the sea, and is a sandbar 8 chō from north to south. Therefore it was called Samezu-saki, as seen in the Edo Sunago. Also, Tokiyori Ason donated land of 12 chō north-south and 10 chō east-west, and attached 180 kan-mon to five monk's quarters. Eighty buildings of monks' quarters stood majestically with their roofs aligned. Also, likening it to Mount Gṛdhrakūṭa in India and modeling it after Mount Kōya in Nanki, faithful believers placed memorial tablets and erected stone pagodas. In Kōan 5, Hōjō Tokimune served as patron and had the halls and pagodas renovated, with a donation of 20 kan-mon for memorial tablet expenses. He especially established a rule that even those guilty of serious crimes would have their sins pardoned if they entered this temple. The temple storehouse and monk's provisions had permission for mendicant practice within ten ri in all directions. In ancient times, when the temple was founded, 2,000 each of pine and zelkova trees were planted, and three Hachiman shrines were built at the sandbar. As the branches and leaves of those pines covered the roads and flourished luxuriantly, the village children of that time sang: "Shinagawa Bay is a famous place, the bent pines in front of Kaian-ji, how auspicious that our reign prospers too." Though these rustic words are hardly worth recording, I note them here briefly. Samezu Myōjin Shrine is located on the seashore of Samizu. The enshrined deity is not clear. According to local tradition, in ancient times a shark over one jō in length was washed ashore at this place, and around that time a great epidemic spread through this area, so fearing it was the curse of this shark, fishermen enshrined its head as a deity of one shrine. I believe that making this enshrined deity the head of a shark was probably a later addition mixed with the origin story of the principal image of Kaian-ji. Someone said that Samizu was formerly written as Samezu. If so, it would be good to call it Samezu Myōjin. 【Left page】 A certain booklet states that at this place there was a thin stream called Samizu-gawa that did not mix with the tide but remained only Samizu, and thus was named. This still needs correction. The ancient coastal road from Shinagawa to Ikegami, north of Ōi, the hill facing the south gate of Tōkai-ji, was the ancient post road of Shinagawa. Local people still call it original Shinagawa. That road connected Ōi, Arai, Ikegami, and Yaguchi. Even now, on the road from Hakkei slope southwest to Ikegami, one zelkova tree from an ancient milestone remains. Also, marker stones still exist in the nearby bamboo groves. The matter of Ōi Station's post horses in the Engi-shiki should serve as evidence. The Engi-shiki states: Post horses of various provinces (omitted)... Musashi Province post horses: Tana-ya, Kodaka, Ōi, Toshima: 10 horses each (remainder omitted) Kaishō-san Raifuku-ji is located in Samizu Ohayashi-machi. It belongs to the Shingon sect and enshrines Jizō Bodhisattva as its principal image. It is a work of Kōbō Daishi (9 sun 8 bu in height). It was founded by the Kajiwara clan, and this land was indeed their residence. According to the temple's origin story, this principal image was passed down through generations of the Kajiwara family and was most spiritually powerful. However, around the Genkō period, a monk named Chiben suffered from an eye disease, prayed to this principal image, and soon recovered completely. Later, when the world fell into great disorder, the whereabouts of the principal image became unknown, but during the Bunki years, the ācārya Baigan discovered it at a place called Kyōzuka (Sutra Mound), four or five chō west of this temple. The origin of Kyōzuka is detailed next.