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【右丁】
法(はふ)に托(たく)して國家(こくか)を乱(みた)さんとす罪(つみ)まさに死(し)に中(あた)れりと依(よつ)て同年
九月十二日 執権時宗(しつけんときむね)頼綱(よりつな)に数百(すひやく)の兵士(へいし)を添(そへ)て松葉谷(まつはかやつ)に發向(はつかう)せしめ
大士(たいし)をからめ捕(と)り又 日朗(にちらう)等(とう)すへて六人の軰(ともから)を地窂(つちのらう)に入 其夜(そのよ)龍口(たつのくち)に於(おい)て
大士(たいし)の頸(くひ)を刎(はね)んとすれとも《割書:固瀬村(かたせむら)寂光山(しやくくわうさん)竜口寺(りうこうし)其(その)旧跡(きうせき)なり此時(このとき)一 老嫗(らうをうな)あり餅(もち)を|盆(ほん)に盛(もり)来(きた)り悲(かなし)み泣(なき)て是(これ)を大士(たいし)に供(くう)すと此事 五百余歳( ひやくよさい)》
《割書:世俗(せそく)の口碑(こうひ)に傳(つた)ふのみ旧説(きうきつ)#1に|此 老嫗(らうは)は稲荷(いなり)の神化(しんけ)する所(ところ)なりと云々》靈威(れいゐ)あるを以て執権時宗(しつけんときむね)大(おほい)に驚(おとろき)死(し)を宥(なた)め
佐州(さしう)に謫(てき)す《割書:鎌倉(かまくら)より髙祖(かうそ)を免(ゆる)すの使者(ししや)と《振り仮名:龍の口|たつ くち》より怪異(くわいい)を告(つけ)んとす使者(ししや)|七里濵(しちりはま)にして行逢(ゆきあひ)たり依(よつ)て其所(そのところ)の水流(すゐりう)を後人(こうしん)名(な)つけて行逢川(ゆきあひかは)と唱(とな)ふ》
《割書:又同十三日 本間重連(ほんましけつら)か依智(ゑち)の家(いへ)に至(いた)り給ふ其夜(そのよ)辰星(しんせい)庭前(ていせん)の梅樹(うめ)の上(うへ)に䧏(くた)りて光(ひかり)を|放(はな)つ其(その)靈跡(れいせき)を旗(しる)して星梅山(せいはいさん)妙典寺(めうてんし)と云同十月二十八日 佐州(さしう)《振り仮名:松か崎|まつ さき》に着舩(ちやくせん)あり其(その)海上(かいしやう)》
《割書:角田(かとた)の水面(すゐめん)にして髙祖(かうそ)棹(さを)をめくらし経題(きやうたい)を畫(くわく)し給ふに文字(もんし)の象(かたち)波間(なみま)に徴(ちやう)して自(みつか)ら龍(りう)|蛇(しや)飛動(ひとう)するの㔟(いきほ)ひあり人 呼(よ)んて《振り仮名:波の題目|なみ たいもく》といふ又同年十一月朔日 大士(たいし)佐州(さしう)大野(おほの)の》
《割書:塚原(つかはら)の小堂(しようたう)に入て霜雪(さうせつ)を犯(おか)し翌(あく)る壬申年正月|十六日 信越(しんえつ)およひ奥羽(あうう)の僧等(そうら)と大(おほい)に問荅(もんたふ)す》同十一年甲戌《割書:歳五|十三》再(ふたゝ)ひ靈威(れいゐ)の
事あるにより遂(つひ)に執権時宗(しつけんときむね)大士(たいし)を赦(ゆる)す依(よつて)三月二十六日 鎌倉(かまくら)に入
同五月十二日 甲州(かうしう)身延山(みのふさん)に隱栖(いんせい)せんと鎌倉(かまくら)を發(はつ)し同十七日かしこに
移(うつ)り草庵(さうあん)に入給ふ《割書:其(その)先同年五月二日 王府(わうふ)より護法(こはふ)の牒(てう)を下し給へり又 其頃(そのころ)|大士(たいし)石和川(いしなこかは)にありて経石(きやうせき)を水底(すゐてい)に投(とう)し鵜飼(うかひ)の鬼(き)を化(け)す》
其地(そのち)幽邃(いうすゐ)なりといへとも四方 歓(よろこ)ひ慕(した)ひて来(きた)り集(あつま)る者(もの)雲(くも)の如(こと)し
【左丁】
故(ゆゑ)に其室(そのしつ)狹(せま)くして衆(しゆう)を容(いる)る事あたはす依(よつて)別(へつ)に一堂( たう)を建(たて)て身延(みのふ)
山(さん)久遠寺(くをんし)と云(いふ)誦経(しゆきやう)観念(くわんねん)十年一日の如し《割書:其頃(そのころ)七面(しちめん)の神(かみ)一女( によ)と化(け)し来(きた)り|妙道(めうたう)を守護(しゆこ)せん事を誓(ちか)ふ》
弘安(こうあん)五年壬午 宗祖(しうそ)齢(よはひ)六十一 其秋(そのあき)微疾(ひしつ)を患(うれ)ふ思(おも)ふ旨(むね)ありとて
同九月八日 身延澤(みのふさは)を出(いて)て同十八日 此(この)池上(いけかみ)の地(ち)に移(うつ)り右衛門太夫(ゑもんのたいふ)
宗仲(むねなか)の宅(たく)に入《割書:宗仲(むねなか)後(のち)に家(いへ)を轉(てん)し|寺(てら)とす今(いま)の大坊(たいはう)是(これ)なり》同廿五日より安國論(あんこくろん)を講(こう)し給ふ
講(こうし)畢(をは)るの後(のち)衆(しゆう)に告(つけ)て云(いは)く吾(われ)三七日の中に化(け)せんとす悉達太子(しつたたいし)は
抜提河(はつたいか)の辺(あたり)にて八十歳( さい)の時(とき)涅槃(ねはん)に入給ふ我(われ)も又 當國(たうこく)田波河(たはかは)の辺(あたり)
にして滅(めつ)すへし若(もし)地震(ちしん)せは是(これ)其期(そのこ)なりとしるへし又 日朗(にちらう)に語(かたつ)て曰く
吾(われ)入滅(にうめつ)の後(のち)墓所(ほしよ)は必(かならす)身延山(みのふさん)に築(つく)へしと云々 嘗(かつ)て十月三日 親(みつか)ら
本迹大要(ほんしやくたいえう)を書(しよ)し立像佛(りふさうふつ)《割書:弘長(こうちやう)元年 大士(たいし)豆州(つしう)謫居(てききよ)の頃(ころ)和田(わた)房室(はうしつ)にうつり|居(ゐ)たまふの頃(ころ)邑主(いうしゆ)伊東八郎左衛門尉朝髙(いとうはちらうさゑもんのせうともたか)大士(たいし)に》
《割書:附属(ふそく)する所(ところ)の立像(りふさう)の釋迦(しやく)なり世(よ)に随身佛(すゐしんふつ)と称(しよう)す此(この)本尊(ほんそん)|海中(かいちゆう)より出現(しゆつけん)の事 附属書(ふそくしよ)注釋(ちゆうしやく)に詳(つまひらか)なり今(いま)洛(らく)の本國精舎(ほんこくしやうしや)にあり》安國論(あんこくろん)官牒(くたしふみ)二本を
併(あはせ)もちて日朗(にちらう)に授与(しゆよ)あり《割書:官牒(くたしふみ)二通いまた考(かんか)へす按(あんする)に文永(ふんえい)十一年二月十四日 御勘氣(こかんき)|赦免(しやめん)の状(ちやう)と同年五月二日 護法(こはふ)の状(ちやう)とをいふならん欤(か)》
同八日 上行( きやう)附属(ふそく)の法門(はふもん)を弘(ひろ)めん為(ため)に六萬恒沙(ろくまんこうさ)の眷属(けんそく)に像(かたと)り正(たゝ)しく
現代語訳
【右丁】
法に託して国家を乱そうとしている。罪はまさに死に値する」として、同年九月十二日、執権時宗は頼綱に数百の兵士を添えて松葉ヶ谷に向かわせ、大士を捕らえ、また日朗等すべて六人の仲間を土牢に入れた。その夜、龍口において大士の首を刎ねようとしたが(固瀬村寂光山龍口寺がその旧跡である。この時一人の老婆がいて、餅を盆に盛って来て、悲しみ泣いてこれを大士に供したという。この事は五百余歳にわたって世俗の口伝にのみ伝わっている。旧説にはこの老婆は稲荷の神が化身したものだという)、霊威があったため、執権時宗は大いに驚き、死刑を止めて佐州に流刑とした(鎌倉から高祖を赦免する使者と龍口から怪異を告げる使者が七里浜で行き会った。そのため後人がその所の水流を行逢川と名付けて呼んでいる)。
また同十三日、本間重連の依智の家に至られた。その夜、辰星が庭前の梅の木の上に降りて光を放った。その霊跡を印として星梅山妙典寺という。同十月二十八日、佐州松ヶ崎に到着した。その海上、角田の水面で高祖が棹をめぐらし経題を画かれると、文字の形が波間に現れ、自然と龍蛇が飛び動くような勢いがあった。人々は「波の題目」と呼んだ。また同年十一月朔日、大士は佐州大野の塚原の小堂に入って霜雪を犯し、翌る壬申年正月十六日、信越および奥羽の僧等と大いに問答した。
同十一年甲戌(歳五十三)、再び霊威の事があったため、ついに執権時宗は大士を赦免した。そこで三月二十六日に鎌倉に入り、同五月十二日、甲州身延山に隠棲しようと鎌倉を出発し、同十七日にそこに移って草庵に入られた(その先、同年五月二日、王府から護法の牒を下し給った。またその頃、大士は石和川にあって経石を水底に投じ、鵜飼の鬼を教化した)。
その地は幽邃であるといえども、四方から歓び慕って来集する者は雲のようであった。
【左丁】
故にその室は狭くて衆を容れることができず、そこで別に一堂を建てて身延山久遠寺という。誦経観念すること十年一日のようであった(その頃、七面の神が一女と化して来り、妙道を守護することを誓った)。
弘安五年壬午、宗祖の齢六十一、その秋微疾を患った。思う旨があるとして、同九月八日身延沢を出て、同十八日この池上の地に移り、右衛門太夫宗仲の宅に入った(宗仲は後に家を転じて寺とした。今の大坊がこれである)。同二十五日より安国論を講じ給った。
講義が終わった後、衆に告げて言うには「吾は三七日の中に化せん。悉達太子は抜提河の辺りにて八十歳の時に涅槃に入り給う。我もまた当国田波河の辺りにして滅すべし。若し地震せばこれその期なりと知るべし」と。また日朗に語って曰く「吾入滅の後、墓所は必ず身延山に築くべし」と云々。かつて十月三日、親ら本迹大要を書き、立像仏(弘長元年、大士豆州謫居の頃、和田房室に移り居たまう頃、邑主伊東八郎左衛門尉朝高が大士に附属した所の立像の釈迦なり。世に随身仏と称す。この本尊海中より出現の事、附属書注釈に詳らかなり。今洛の本国精舎にあり)、安国論、官牒二本を併せもって日朗に授与した(官牒二通はいまだ考えず。按ずるに文永十一年二月十四日御勘気赦免の状と同年五月二日護法の状とを言うのであろうか)。
同八日、上行附属の法門を弘めんために六万恒沙の眷属に像って正しく
英語訳
【Right page】
託して国家を乱そうとしている。罪はまさに死に値する」として、同年九月十二日、執権時宗は頼綱に数百の兵士を添えて松葉ヶ谷に向かわせ、大士を捕らえ、また日朗等すべて六人の仲間を土牢に入れた。その夜、龍口において大士の首を刎ねようとしたが(固瀬村寂光山龍口寺がその旧跡である。この時一人の老婆がいて、餅を盆に盛って来て、悲しみ泣いてこれを大士に供したという。この事は五百余歳にわたって世俗の口伝にのみ伝わっている。旧説にはこの老婆は稲荷の神が化身したものだという)、霊威があったため、執権時宗は大いに驚き、死刑を止めて佐州に流刑とした(鎌倉から高祖を赦免する使者と龍口から怪異を告げる使者が七里浜で行き会った。そのため後人がその所の水流を行逢川と名付けて呼んでいる)。
また同十三日、本間重連の依智の家に至られた。その夜、辰星が庭前の梅の木の上に降りて光を放った。その霊跡を印として星梅山妙典寺という。同十月二十八日、佐州松ヶ崎に到着した。その海上、角田の水面で高祖が棹をめぐらし経題を画かれると、文字の形が波間に現れ、自然と龍蛇が飛び動くような勢いがあった。人々は「波の題目」と呼んだ。また同年十一月朔日、大士は佐州大野の塚原の小堂に入って霜雪を犯し、翌る壬申年正月十六日、信越および奥羽の僧等と大いに問答した。
同十一年甲戌(歳五十三)、再び霊威の事があったため、ついに執権時宗は大士を赦免した。そこで三月二十六日に鎌倉に入り、同五月十二日、甲州身延山に隠棲しようと鎌倉を出発し、同十七日にそこに移って草庵に入られた(その先、同年五月二日、王府から護法の牒を下し給った。またその頃、大士は石和川にあって経石を水底に投じ、鵜飼の鬼を教化した)。
その地は幽邃であるといえども、四方から歓び慕って来集する者は雲のようであった。
【左page】
故にその室は狭くて衆を容れることができず、そこで別に一堂を建てて身延山久遠寺という。誦経観念すること十年一日のようであった(その頃、七面の神が一女と化して来り、妙道を守護することを誓った)。
弘安五年壬午、宗祖の齢六十一、その秋微疾を患った。思う旨があるとして、同九月八日身延沢を出て、同十八日この池上の地に移り、右衛門太夫宗仲の宅に入った(宗仲は後に家を転じて寺とした。今の大坊がこれである)。同二十五日より安国論を講じ給った。
講義が終わった後、衆に告げて言うには「吾は三七日の中に化せん。悉達太子は抜提河の辺りにて八十歳の時に涅槃に入り給う。我もまた当国田波河の辺りにして滅すべし。若し地震せばこれその期なりと知るべし」と。また日朗に語って曰く「吾入滅の後、墓所は必ず身延山に築くべし」と云々。かつて十月三日、親ら本迹大要を書き、立像仏(弘長元年、大士豆州謫居の頃、和田房室に移り居たまう頃、邑主伊東八郎左衛門尉朝高が大士に附属した所の立像の釈迦なり。世に随身仏と称す。この本尊海中より出現の事、附属書注釈に詳らかなり。今洛の本国精舎にあり)、安国論、官牒二本を併せもって日朗に授与した(官牒二通はいまだ考えず。按ずるに文永十一年二月十四日御勘気赦免の状と同年五月二日護法の状とを言うのであろうか)。
同八日、上行附属の法門を弘めんために六万恒沙の眷属に像って正しく