翻刻
【右頁】
て斯幫私國(すぱんすこく)より《割書:一名イス|ハニア》亜墨利加國(あめりかこく)を《割書:日本の東にある大州なりイスハニヤ國|のアメリキュースといふ人初て見出たるゆ》
《割書:ゑにアメリカと|名附といへり》攻侵(せめをかし)財寶(ざいほう)又(また)は顔(かほ)よき女(おんな)を數多(あまた)奪(うばひ)とり大舶(おほふね)の中(うち)に俘虜(とりこ)と
し是(これ)と交媾(かうごう)せしものは畢(こと〳〵く)此病(このやまひ)に染(そみ)て忽(たちまち)《振り仮名:スパンス國| こく 》にはびこり夫(それ)より意太(いた)
里亜國(りやこく)拂郎察國(ふらんすこく)都逸國(といつこく)等(とう)にはびこれり其始(そのはじめ)《振り仮名:スパンス國| こく》に起(おこり)し故(ゆゑ)にス
パンスポツクと名附(なつく)といへり《割書:ポツクとは蛮語(ばんご)にてカサといふ義なり又一名をリユーヱスヘネルカといふ淫(いん)|穢の病といふ義也又一名をヒユーテンダカラといふ陰所のうれひといふ義也》
右(みぎ)は阿蘭陀書(をらんだしよ)の弗爾部畧却(ふるぶりやつけ)に誌(しるす)ところなり《割書:予長崎に遊学せし比中野忠雄に|従ひ醫書およひ天学書和解の時》
《割書:フルブリユーツケを見る事を得たり中野氏は蘭学無双にして又算術に通達し彼国の天学書ナテユル|キユンストの奥義を明む其和解の書ありといへともいまた世に行ふ事あたはす惜かな其人今は黄泉の客となれり》
其(その)年歴(ねんれき)を考(かんがふ)るに實(じつ)に我(わが)
日本(につほん)
後土御門天皇(ごつちみかどてんわう)明應(めいおう)三年/甲寅(きのえとら)にあたれり唐山(もろこし)は明(みん)の考宗(かうそう)弘治(こうち)の末(すゑ)の比(ころ)此病(このやまひ)
【左頁】
始(はじめ)て廣東(かんとう)に起(おこり)て國々(くに〴〵)にはびこりし故(ゆゑ)に廣東瘡(かんとうさう)あるひは廣瘡(かうさう)と名附(なづく)と續(しよく)
醫説(いせつ)黴瘡秘録等(ばいさうひろくとう)の書(しよ)に見(み)えたり是(これ)を楊梅瘡(やうばいそう)と名附(なづけ)しは其形(そのかたち)《振り仮名:楊梅|やうばい#1|やまも 》に似(に)
たるものあればなり黴瘡(ばいさう)と名附(なづけ)しは此病(このやまひ)の身中(しんちう)に侵入(しみいる)は物(もの)の黴(かび)くさるが如(ごとく)なる
によつてなり其外(そのほか)さま〴〵の名(な)あれども此(こゝ)に畧(りやく)す明(みん)の弘治(こうち)の末(すゑ)は
後柏原天皇(ごかしははらてんわう)永正(えいしやう)の始(はじめ)にあたれり《振り仮名:スパンス人| じん》アメリカより此病(このやまひ)を傳(つたへ)し後(のち)數年(すねん)
を經(へ)て西洋(せいやう)賈舶(かはく|あきんどぶね)の湊泊(ふなとまり)する廣東(かんとう)に起(おこり)しを廣東瘡(かんとうさう)と名附(なづけ)たる其(その)因縁(いんゑん)
こそあきらかなれ
日本(につほん)にも是(これ)を傳(つたへ)て其始(そのはじめ)は長﨑(ながさき)に起(おこり)しならん
後奈良天皇(ごならのてんわう)弘治(こうち)の比(ころ)まではすべて外國(ぐわいこく)の舶(ふね)は泉州界(せんしうさかひ)の津(つ)又(また)は筑前(ちくぜん)の博多(はかた)豊(ぶん)
後(ご)の府内等(ふないとう)に入津(いりつ)せしが永禄(えいろく)十二/己巳(つちのとのみ)の年(とし)始(はじめ)て長﨑(ながさき)に入津(いりつ)する事(こと)にさ
現代語訳
【右頁】
1494年にスペイン国(別名イスパニア)がアメリカ大陸を(日本の東にある大陸で、スペイン国のアメリクス・ヴェスプッチという人が初めて発見したため、アメリカと名付けられた)侵略し、財宝や美しい女性を多数奪って大船の中に捕虜として連れ去り、これと性的関係を持った者はことごとくこの病気に感染し、たちまちスペイン国に蔓延した。それからイタリア国、フランス国、ドイツ国などに広がった。その始まりがスペイン国で起こったため、スペインポックスと名付けられたという。(ポックスとは蛮族の言葉で「かさ」という意味である。また別名をリューエスヘネルカといい、淫らな穢れの病という意味である。また別名をヒューテンダカラといい、陰部の憂いという意味である。)
右記はオランダの書物「フルブリューツケ」に記されているところである。(私が長崎に遊学していた頃、中野忠雄に師事して医書および天学書を和訳した時、フルブリューツケを見ることができた。中野氏は蘭学無双の人で、また算術に通達し、オランダの天学書ナテュールキュンストの奥義を明らかにした。その和解書があるというが、いまだ世に出版されていないのは惜しい。その人は今は故人となってしまった。)
その年代を考えると、実に我が日本の後土御門天皇明応3年甲寅(1494年)にあたる。中国では明の孝宗弘治年間の末頃、この病気が
【左頁】
初めて広東に起こって各国に蔓延したため、広東瘡あるいは広瘡と名付けられたと、『続医説』『黴瘡秘録』などの書物に見える。これを楊梅瘡と名付けたのは、その形が楊梅(山桃)に似たものがあるからである。黴瘡と名付けたのは、この病気が身体に侵入するのが物が黴で腐るようであることによる。その他様々な名前があるが、ここでは省略する。明の弘治年間の末は、後柏原天皇永正年間の始めにあたる。スペイン人がアメリカからこの病気を伝えた後、数年を経て西洋商船が停泊する広東に起こったのを広東瘡と名付けた、その因縁は明らかである。
日本にもこれが伝わり、その始まりは長崎に起こったであろう。後奈良天皇弘治年間までは、すべて外国の船は泉州界の津または筑前の博多、豊後の府内などに入港していたが、永禄12年己巳の年(1569年)に初めて長崎に入港することになった
英語訳
【Right Page】
In 1494, Spain (also called Hispania) invaded America (a large continent east of Japan, first discovered by Americus Vespucius of Spain, hence named America), plundered much treasure and many beautiful women, took them as captives aboard large ships, and all those who had sexual relations with them contracted this disease, which immediately spread throughout Spain. From there it spread to Italy, France, Germany, and other countries. Since it first arose in Spain, it was called "Spanish pox." (Pox is a barbarian word meaning "sores." It is also called Lues Venereae, meaning disease of lustful defilement. Another name is Morbus Gallicus, meaning affliction of the private parts.)
The above is recorded in the Dutch book "Chirurgia" (Heelkunde). (When I was studying in Nagasaki, I was able to see this Chirurgia while studying under Nakano Tadao and translating medical and astronomical texts. Nakano was unparalleled in Dutch learning and also proficient in mathematics, clarifying the profound principles of the Dutch astronomical text Natuurkunde. Though he has written translations, they have not yet been published, which is regrettable. That person has now passed away.)
Calculating the chronology, this corresponds exactly to the third year of Meiō, year of Kinoe-Tora (1494) during the reign of Emperor Go-Tsuchimikado in Japan. In China, during the late Kōji era under Emperor Xiaozong of Ming, this disease
【Left Page】
first appeared in Guangdong and spread to various countries, hence it was named Guangdong-sō (Guangdong sores) or Kō-sō (broad sores), as seen in books such as "Zoku Isetsu" (Continued Medical Theories) and "Baisō Hiroku" (Secret Records of Syphilis). It was called Yōbai-sō (yangmei sores) because some forms resembled yangmei fruit (Chinese bayberry). It was called Bai-sō (mold sores) because the way this disease penetrates the body is like things rotting with mold. There are various other names, but I omit them here. The late Kōji era of Ming corresponds to the early Eishō era under Emperor Go-Kashiwabara. The connection is clear: after the Spanish transmitted this disease from America, several years passed before it appeared in Guangdong, where Western merchant ships anchored, and was thus named Guangdong sores.
This was also transmitted to Japan, and its beginning likely occurred in Nagasaki. Until the Kōji era under Emperor Go-Nara, all foreign ships entered ports at harbors in Senshu territory, or Hakata in Chikuzen, Funai in Bungo, etc., but in the 12th year of Eiroku, year of Tsuchinoto-Mi (1569), they first began entering Nagasaki port.